「北朝鮮、かつては第三世界連帯を主導した『能動的なアクター』だった」【レビュー】

投稿者: | 2026年5月16日

 20日、北朝鮮の「ネゴヒャン(私の故郷)女子蹴球団」が、水原FCウィメンとアジアサッカー連盟(AFC)女子チャンピオンズリーグの準決勝で対戦するため、韓国を訪れる。サッカーチームの訪韓が南北交流の口火を切るかどうかは未知数だ。最近、北朝鮮は「敵対的な二国」という基調を再確認し、憲法から「自主、平和統一、民族大団結の原則に基づき祖国統一を実現するために闘争する」という条項を削除した。米国の歴史学者ベンジャミン・ヤング氏のの『銃、ゲリラ、そして偉大な指導者:北朝鮮の第三世界関係史(原題:Guns, Guerillas, and the Great Leader: North Korea and the Third World)』は、予測不可能な北朝鮮の歩みを過去の歴史を通じて解説する本だ。著者の核心的な主張は、北朝鮮が「閉鎖的な国家ではなく、20世紀後半の世界史において『自らの空間』を作り出した世界規模のアクター」だったという点だ。

 「自らの空間」を作るための北朝鮮の選択は、第三世界を味方につけることだった。今日、第三世界という言葉には否定的な意味合いが強いが、20世紀中盤から後半にかけては、米国式の自由民主主義やソ連式の社会主義とは異なる対案となる体制を模索し、脱植民地主義を夢見る人々にとっては誇らしい言葉だった。著者によると、北朝鮮の第三世界主義的な感性は、すでに「日帝強占期(日本の植民地時代)」に始まっていた。「満州的伝統」、すなわち満州で日本の植民地主義者たちと戦った初期の経験が、北朝鮮を「多くの第三世界の民族解放闘争に同調する確固たる反植民地主義国家」へと変えた。

 1950年代半ば、金日成(キム・イルソン)の立場は不安定だった。ソ連派と延安派の反対に直面したためだ。抗日遊撃隊中心のパルチザン派が、結局「偉大な首領」金日成を中心に団結し、1956年に政敵を粛清することに成功した。その後、1956年から1967年の間、「自主と自立」を強調する北朝鮮の主体思想は、「第三世界の反植民地抵抗運動や脱植民地化された世界に広がっていた多様な解放理念」と自然に結びついた。

 北朝鮮は特にキューバと「相性」が良かった。1960年8月に文化協力協定を締結し、11月にはチェ・ゲバラが中国訪問直後に平壌(ピョンヤン)を訪れた。キューバは冷戦を通じて北朝鮮を支持し、「北朝鮮の国際ネットワークの中核」としての役割を果たした。1967年にチェ・ゲバラが戦死すると、金日成は彼を「革命の英雄」として追悼し、逝去1周年には『労働新聞』に自ら執筆した論説を掲載するほどだった。

 金日成はベトナム戦争も適切に活用した。空軍兵力に加え、物資支援も惜しまなかった。アジアにおける米国の軍事的プレゼンスを弱体化できるという現実的な判断と、米国がベトナムで敗北すれば「韓国から米軍が撤退するだろう」という期待もあった。この時期、金日成は「第三世界」を「自主的な反植民地主義を拡散させ、自身の国際的名声を高めるための肥沃な土壌」と見なしていた。1960年代末から1970年代初頭にかけて、金日成主義は新聞広告、映画上映、北朝鮮への無償旅行などを通じて国境を越えて拡散した。当時、第三世界の新聞に掲載される北朝鮮の広告の量があまりにも多く、「韓国政府は海外に掲載される北朝鮮の広告に一つひとつ抗議できないほど」だった。

 ところが、1970年代に入ってから、韓国と北朝鮮の状況は一変した。韓国は経済発展を最優先課題とし、北朝鮮は経済的困難を克服するための「(北)朝鮮優先」政策を推進した。北朝鮮の建設会社と労働者たちはアフリカ全域で工場、大統領宮殿、競技場を建設した。北朝鮮の技術者たちはソマリア、ルワンダ、マダガスカルなどで農業生産力を増大させ、都市の下水処理システムを構築した。自然と第三世界の政府が主体思想に再び注目した。第三世界諸国は、「朝鮮優先」という民族主義的な思想が加味された主体思想を、「自立を強調する自国固有の土着概念と結びつけた」。自立こそが、脱植民地化を追求する多くの政府にとって、「団結の叫び」のように聞こえた。

 金正日(キム・ジョンイル)時代を迎え、北朝鮮の基調も少しずつ変化した。金正日は1980年代初頭、韓国における混乱を、自身が「朝鮮半島の卓越した政治家である父親の名声を受け継ぐ機会」と捉えた。最大の事件は、1983年にミャンマー(旧ビルマ)の当時の首都ヤンゴンで実行された爆弾テロだった。韓国大統領の暗殺には失敗したが、この事件は「北朝鮮指導部の対外政策の転換を示す事件」だった。朝鮮半島という地理的境界に限定されていた南北の軍事的競争が、ついに第三世界へと拡大したのだ。

 一方、この時期の北朝鮮の戦略は二元化されていた。軍事分野は金日成が、芸術的権威は後継者の金正日が指揮した。金正日は「金日成の集団体操」を海外に輸出することに熱心だった。数千人の学生が革命スローガンをカードセクションで演出し、熟練した舞踊家たちが振り付けに合わせて舞踊や曲芸を披露し、対外宣伝を強化した。金正日はある談話で、「革命的な思想意識と多方面の知識、豊かな文化的素養と健壮な体力が、共産主義的人間が備えるべき基本的な風貌」だと強調した。

 1980年代後半、北朝鮮はあらゆる手段を動員して生き残ろうとした。当時、北朝鮮は朝鮮戦争で韓国を支援したエチオピアとの関係改善に没頭した。1977年に政権を握ったメンギストの独裁的傾向が「金氏一家政権の独裁的性格」と共通するところがあり、並外れた開発援助の規模や農業技術者の派遣などで北朝鮮の立場を固めた。しかし、アフリカ諸国に対する援助は実質的な成果を上げられなかった。過酷な環境はさておき、「社会主義陣営の統一された努力」がなかったためだ。

 北朝鮮は1986年以降、第三世界開発のための財政支援を削減した。一方で、1988年のソウル五輪の成功に対抗するため、1989年に第13回世界青年学生祭典を開催したが、海外における朝鮮民主主義人民共和国のイメージを改善することはできなかった。北朝鮮体制はすでに西側世界から「時代錯誤的」という批判に直面していた。世界青年学生祭典は、その不名誉を再確認させるものとなった。

 第三世界は今や、北朝鮮との関係に門戸を閉ざしている。核挑発、各種暗殺事件やハッキングを敢行しているからだ。それにもかかわらず、北朝鮮は「20世紀後半の世界史において能動的に動いた歴史的アクター」であり、その基本基調は様々な様相を通じて依然として維持されているというのが著者の見解だ。南北は未曾有の道を共に歩んでいる。これから進むべき道において、『銃、ゲリラ、そして偉大な指導者』が歴史的参照資料として適切に活用されるのではないか、という少なからぬ期待を抱かされる。

2026/05/15 09:03
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/56196.html

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