「世界遺産」佐渡金山に行ってみたら…あちこちに朝鮮人労働者の痕跡

投稿者: | 2024年7月28日

ユネスコ世界遺産委員会が27日に日本の佐渡金山を世界文化遺産に登録すると、岸田文雄首相をはじめとする日本政府関係者らは一斉に歓迎のメッセージを出した。

岸田首相はこの日、「日本の宝から世界の宝となった。国内はもちろん、世界中の様々な人々が現地を訪れ、『佐渡島の金山』の価値に触れられることを期待している」と明らかにした。X(旧ツイッター)にも投稿し、「伝統手工業を極限まで高め、欧米機械化と比肩する日本独自の技術の粋だった」と意味を付与した。上川陽子外相も談話を通じて「世界中の方々に我が国の世界遺産の価値の理解が進むよう、関係省庁と連携し、取り組んでまいります」と説明した。

 世界遺産登録のニュースにこの日佐渡の住民らは喜びの表情を隠すことができなかった。ある宿泊業関係者は明るい顔で「佐渡市民が世界遺産登録発表をみんな一緒に見守った。お祝いの意味を込め今夜の祭りで盆踊りもする予定」と説明した。

高齢化などで人口が5万人にすぎない佐渡は鉱業が衰えて主要な商店街の空き店舗が増えるなど衰退が続いていた。住民らの立場では世界遺産登録が観光業で都市を再生する好材料となるわけだ。

◇世界遺産となった佐渡金山に行ってみると

記者は世界遺産登録決定前日の26日、新潟から佐渡へ向かう船に乗り込んだ。本格的な夏休みシーズンが始まったこの日、佐渡へ向かう快速船は満席だった。

船内では佐渡金山の世界遺産推薦に対する放送が流れた。新潟を出て1時間以上過ぎると見え始める佐渡。観光客はスマートフォンを取り出して写真を撮り続けた。

佐渡に降りて自動車で40分ほど走ると佐渡金山に到着した。切符売り場前の停留場にお客をいっぱいに乗せたバスが次から次へと到着した。佐渡金山内の坑道は約400キロメートル。日本はこのうち2カ所を観光コースとして展示し一般の人たちに公開していた。佐渡金山関係者は「1年に14万~15万人が訪ねてくるが、世界遺産に登録されれば観光効果を期待できそうだ」として期待感を示した。

◇佐渡金山には「朝鮮人募集、帰国」の2行で記録

一般の人たちに公開された坑道は2カ所。世界遺産登録期間として日本が決めた江戸時代(1603~1868)に手掘りで金を採掘していた当時を再現した宗太夫坑道が最初だ。見て回るのに約30分かかり、400年前に行われていた採掘方式を詳しく説明するために人形などを動員した。「早く外に出て酒を飲みてぇ」と話す人夫の姿を再現している。

もう1カ所は近代期である明治時代(1868~1912年)以降に鉱石を掘り出すのに使われた道遊坑道。鉱石を速やかに積み出すために鉄道が敷かれ、片側には当時使われた鉱石運搬車が展示されていた。総延長は1.5キロメートルほどで、見て回るのに40分かかる。

道遊坑道を出ると、近代技術を導入した機械工場の遺跡がある。ここの壁面に日本は佐渡金山の歴史を日本語だけで整理して記しているが、朝鮮人という単語が登場するのはたった2回。「昭和14年(1939年)労務動員計画で朝鮮人労働者の日本での募集が始まる」と「昭和20年(1945年)9月敗戦で朝鮮人労働者が帰国した」というものだ。1000人を超える朝鮮人が強制動員されたという事実は抜けていた。

◇佐渡のあちこちに残っている朝鮮人の暮らし

佐渡金山では朝鮮人労働者の痕跡を見つけるのが容易ではないが、「鉱山村」地域である相川一帯)では違った。ここには日本政府が「全体の歴史を伝える」として別途に朝鮮人強制徴用者などに対する展示室を設けた相川郷土博物館をはじめ、朝鮮人労働者の寮と炊事場の跡が残っている。相川郷土博物館は耐震工事を経て5月にリニューアルして再オープンしたが、朝鮮人労働者に対する展示室が設けられた2階Eブロックへ向かう通路は28日の一般公開を控えて立ち入り禁止状態だった。

ここは過去に日本の皇室の財産を管理した所で、佐渡金山管理事務所として使われた後に佐渡市が管理する現在の形態の博物館に変わった。5ブロックの展示室で構成されている。日本政府は、朝鮮半島出身者を含んだ鉱山労働者の生活を紹介する展示室を設けた。日本が第2次世界大戦中に発令した国家総動員法により朝鮮人労働者が動員され1945年の日本の敗戦まで1000人以上の朝鮮半島出身労働者がここで働いたという内容が反映された。

強制動員の事実は抜けているが当時の朝鮮人労働者の生活が分かる史料などが展示される。シャトル外交再開とともに昨年韓国を訪問した日本の岸田文雄首相の「心が痛む」という強制徴用労働者に対する発言もともに扱われる予定だ。

ここのはす向かいには世界遺産から除外された浮遊選鉱場がある。近代施設でここでは佐渡金山から掘り出された鉱石を分類し金と銀を分離する作業が行われた。ここから車で10分もかからない大工町。ここで会った高齢の住民は雑草が茂ったところを示しながら「ここが朝鮮人炊事場のあった所」と説明した。

炊事場があった場所は表示板ひとつない状態だった。住民は「炭鉱に連れてこられた朝鮮人がいると聞いたが、実際にその後その人たちが定着し朝鮮出身の友達が同じクラスにも7~8人いた」と話した。

炊事場から歩いて5分もかからない所には朝鮮人寮跡がある。現在は拘置所の表示板だけ掲示されているが、日本政府はここに朝鮮人寮があったという案内板を設置する予定だ。

日本は1954年にここに拘置所を建て1972年まで使ったが、国の文化財に登録されている。この地域の住民は「ここに朝鮮人寮があったという話は初めて聞いた。どんな経緯で朝鮮人寮の跡に拘置所が建てられたのかも知らない」と話した。拘置所の中に置かれた内部資料や施設には拘置所閉鎖後には倉庫として使われ、2010年の修理を経て文化財に公開されているという説明だけ書かれていた。

2024/07/28 11:39
https://japanese.joins.com/JArticle/321672

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