三重県熊野市は太平洋の海と接する22キロメートルもの白い砂浜が広がり、美しい自然景観を誇る地だ。しかし、この地域にある木本トンネルの前には、99年前の日帝強占期(日本による植民地時代)の朝鮮人労働者の残酷な死が隠されている。
1925年1月、山に囲まれた木本町(現在の熊野市)では、山を貫いて道を作るトンネル工事が行われていた。全長509メートルのトンネル工事で、木本トンネル側には朝鮮から渡ってきた労働者200人余りが主に投入された。
朝鮮人労働者は手作業で山を掘り、道を作っていた。植民地朝鮮から来た労働者に対する差別は日常だった。トンネル工事が終盤を迎えていた翌年の1月2日、朝鮮人労働者が町内の映画館で日本人に「中にいる同僚を探してほしい」と頼んだことが悲劇の発端になった。田中という日本人がこれを断って口論となり、「お前ら朝鮮人が身の程知らずにもけんかを売っているのか」と言って朝鮮人を短刀で刺し、重傷を負わせる事件が起きた。翌日、朝鮮人労働者がこの問題を問い詰めると、今度は木本の一部の日本人が朝鮮人労働者の宿舎を襲撃し、李基允(イ・ギユン)さん(当時25)を殺害した。当時、町には日本人の間で「朝鮮人がダイナマイトを持って復讐しにくる」、「町に火をつけようとしている」というデマが流れたという。
これが終わりではなかった。地域の在郷軍人会や消防組、自警団などによって、もう一人の朝鮮人労働者の裵相度(ペ・サンド)さん(当時29)が道で無残に殺された。1926年2月4日付の「朝鮮日報」は当時の状況をこのように伝えている。「その地域の日本の自警団、青年団、在郷軍人会、消防組、青年団などが軍事教育用の銃剣や猟銃、短刀、消防用の鉄かぎと竹槍などを持って朝鮮人を襲撃し、弾丸が飛び交い刃が振り回された所へ朝鮮人の血が流れ、釜山生まれの裵相度氏と慶州生まれの李基允氏(当時朝鮮日報の記事には「イ・ギリョン」と記載)が即死した」。朝鮮人労働者たちと親しい間柄だった一部の日本人も一緒に激しい抵抗を試みたが、無駄だった。日本側の自警団などはここで止まらず、山やトンネルに逃げた朝鮮人を追跡して捕まえ、彼らを全員町から追放した。事件は双方の暴力として処理され、同年10月、法廷で朝鮮人側(日本人3人を含む)15人のうち4人に1年6カ月~3年の実刑、残りは執行猶予が下された。朝鮮人殺害に加担した日本人6人は6カ月~2年の実刑、10人は執行猶予(1人は自殺)の処分を受けた。しかし、犠牲になった人々は帰ってこなかった。
木本事件を浮上させたのは、在日の歴史研究家の金靜美(キム・ジョンミ)さんだった。1980年代初め、三重県近隣の和歌山地域の朝鮮人の歴史を調査していたなかで、日帝強占期時代の朝鮮人労働者と関連した「木本の悲劇」を知った。さらに、1988年7月には熊野市を訪れ、当時の事件の目撃者に会うなど、本格的に事件の実体を調査しはじめた。朝鮮人労働者を雇用した日本人が近くの極楽寺の墓地に2人の墓碑を置いたが、朝鮮人に対する差別的な表現とともに、犠牲者の創氏改名された日本名が刻まれていた。その後、極楽寺の住職は2人の墓碑を取り壊して無縁墓に移した。当時の状況は、1988年に金さんが書いた論文「三重県木本における朝鮮人襲撃・虐殺について」(在日朝鮮人史研究18号・在日朝鮮人運動史研究会)に詳しく記録されている。翌年6月、金さんと志を同じくする人々が、木本事件の真相を明らかにし犠牲者のための追悼碑を建立するために「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允、裵相度)の追悼碑を建立する会」(木本会)を発足。その後、極楽寺の住職が変わり、母国の韓国から取り寄せた石碑に2人の本名の韓国名が再び刻まれるまで、80年近い歳月がかかった。先月27日、ハンギョレの取材に応じた金さんは「歴史を直視し反省するために、まず誤った歴史を正しく書き直すことが必要であり、このような惨事はこの地域だけでなく日本全体の問題だと考えた」とし、「在日朝鮮人が日本の人々に一緒に考えようと提案し、会が発足した」と語った。
1994年には木本トンネルの南側入口付近に、被害者の残酷な歴史を記憶するために市民の自発的な募金で追悼碑が建てられた。すぐ隣の碑文板には「李基允氏と裵相度氏が朝鮮の故郷で生活できずに、日本に働きにこなければならなかったのも、異郷で殺されたのも、天皇(制)のもとにすすめられた日本の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が原因でした」とし「二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この碑を建立しました」と書かれている。毎年11月に追悼碑の前で李さんと裵さんを悼む集いが開かれており、昨年で31回目を迎えた。
木本事件の真実を探る過程で、犠牲者の一人である裵相度さんの遺族とは連絡がついた。裵さんの本籍地が釜山東莱区(トンネグ)の一地域であることが確認され、ここの洞事務所(現在の住民センター)に遺族照会を要請する手紙を送った。劇的にも、当時の洞事務所の所長が裵さんの甥であり、その後、遺族が事件発生から63年たった1989年に惨事現場を直接訪ねた。木本会は来年の惨事100年を控え、もう一人の犠牲者である李基允さんの遺族を方々に探している。以前、会のメンバーは1989年に李さんの本籍地が慶尚北道慶州郡の内東面排盤里(ネドンミョン・ペバンリ、現在の排盤洞)であると突き止め、聞き込みをするかのようにこの地域の李氏の存在を調べたが、痕跡を見つけることはできなかった。その後も金さんと木本会のメンバーは現地の住民センターを訪れ、確認可能な戸籍簿などを一つひとつ調べたが、遺族に関する情報は得られなかった。
木本会がもう100年近くたったこの事件の究明に心血を注ぐのは、当時の惨事が朝鮮人に対する差別で数千人の命を奪った関東大震災時の朝鮮人虐殺の延長線上にあると考えるためだ。1923年9月に起きた大地震の混乱の中で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などのデマが流れ、日本軍と警察、自警団などが朝鮮人を虐殺した。植民地時代の残酷な過去の真相を究明し、謝罪と反省を通じて根強い差別の歴史を断ち切らなければならないというのが木本会の考えだ。金さんは「植民地時代の朝鮮には『もう一人の李基允・裵相度さん』が無数におり、現在は彼らの遺族が生存している」として「木本虐殺に対して国と社会が歴史的責任を負い、被害者と遺族に謝罪と賠償をすべき」だと指摘した。
「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」(在日歴史研究家、金靜美pada@syd.odn.ne.jp)は、木本事件当時に裁判に付された朝鮮人労働者だけでなく、朝鮮人側に立って暴力に立ち向い裁判に付された日本人に関する記録と遺族を探している。当時、在日本朝鮮労働総連盟などは「三重県事件に際して全日本無産階級に訴える」という檄文を通じて「われわれ朝鮮人労働者が命を失うことになった刹那に林林一など日本人労働者が勇敢にもわれわれの味方になり、(日本の自警団などの)ダイナマイトを奪った」と明らかにした記録などを残した。木本事件当時、日本の自警団などの暴力に対抗して法廷に立った人たちは、キム・ドクリョン(27)、キム・ドフン(24)、キム・ミョング(不詳)、キム・ヨンス(21)、キム・ウボン(20)、ソ・スアム(29)、ユ・サンボム(34)、ユン・ジョンジン(不詳)、ユン・ソクヒョン(27)、イ・ギョンゲ(不詳)、イ・ドスル(27)、チャン・マンシク(19、以上朝鮮人)、 高橋万次郎(19)、林林一(18)、杉浦新吉(22、以上日本人)。
2025/01/07 08:36
https://japan.hani.co.kr/arti/international/52103.html