人権活動家に生まれ変わった「慰安婦」被害者キル・ウォノクさんを追悼する【寄稿】

投稿者: | 2025年2月25日

 2005年6月末に韓国で開催された世界女性学大会の終了後、仁川(インチョン)で大きなクッ(巫女による祈りの儀式)が行われた。日帝強占期に意に反して連れて行かれ、ついに戻ってこられなかった幼い娘たちの魂を慰めるための解冤グッ(恨みを晴らすためのクッ)の現場だった。娘のように見える美しくつつましい女性が、何人かのおばあさんを非常に細やかに世話しながら入ってきた。何人かの人が歓迎してあいさつした。実は彼女たちは、教会に通っている(「日本軍慰安婦」被害者の)女性たちだった。彼女たちが何か語るようなことは特になかった。そのように離れたところから一瞥(いちべつ)しただけだった。

 そして私は、参加しようと心の中で繰り返していただけの水曜集会に一歩踏み出した。初めて参加した日、まだお元気なおばあさんたちに直にお目にかかり、私は恥も外聞もなく大泣きした。これまで漠然と資料だけで知っていた、被害女性たちの受けた虐待に怒るという一般的な感情ではなかった。普段ほとんど使わなかった単語「悔しさ」を胸の奥から突き上げながら理解した瞬間だった。

 こうしておばあさんたちと縁を結んだ。私の授業を聞く学生たちと、長期休みになればソウル西大門(ソデムン)の「日本軍慰安婦」被害者の憩いの場を訪ね、マンドゥを一緒に作りながらおばあさんたちの話を聞かせた。多くのおばあさんの中で最も物腰柔らかなキル・ウォノクさん(1928~2025.2.16)がおぞましい強制連行以降の時間について語るのを、若い学生たちが息を殺して涙ながらに聞くのを横目でちらちらと見ながら、一方では彼らの正義感と当然の怒りに感心したものだ。

 多くの大人が過ごす空間で、特に年配の女性たちの気質の違いはわずらわしくもあるが、娘のように思われていたソン室長(韓国挺身隊問題対策協議会時代、故ソン・ヨンミ先生の肩書きは室長だった)の「献身」という単語に恥じないリーダーシップと按配のおかげで、そこは落ち着いていて穏やかな憩いの場、温かな「我が家」となった。その頃、ソン室長はキル・ウォノクさんの生涯史を中心にした修士論文を書いており、他人の論文を読むのが趣味の私は、のりの器にネズミが出入りするように憩いの場に通い、室長と膝を突き合わせた。おかげで口数が少なかったウォノクさんのすさまじい話を、少し深く聞くことができた。

 多くの被害者がそうであるように、13歳、第二次性徴も現れていない幼い女の子に加えられたその暴力を、どうしてわずかな単語でまとめてしまえよう。私たちの言葉がどれほど簡単に乱用されていることか。多くの被害女性の中で最も慎重な性格の持ち主であるキル・ウォノクさんは、学びにおいても誠実さを見せてくださった。美術治療、園芸治療などなど、多くのボランティアの授業でも、常に1等賞だった。

 「渡り鳥ばあさんは忙しい」。つつましく、とりわけ仏教に深く帰依していて、粗末な短珠(数珠の一種)を贈られても大変喜んでおられた釜山(プサン)生まれのイ・マクタルさんは、キル・ウォノクさんを「渡り鳥ばあさん」と呼んでいた。

 「明日はデモに行かなきゃ」。それは水曜集会を意味した。みなソン室長に導かれ、積極的に参加しておられた。集会が行われる日本大使館前の「平和路(ピョンファロ)」はいつも人でいっぱいだった。何人かのおばあさんたちは公的な意識を高めていった。キム・ボクトンさんとキル・ウォノクさんは特に高かった。親しいおばあさんから、だんだんと私たちの師匠となっていった。自身の過去に胸を痛め、人に知られることを恐れていた被害者から、「堂々としろ、これ以上戦争や抑圧で苦しむ女性を出してはならない!」と叫んで平和と人権の運動家に。キリスト教徒だった方の「生まれ変わり」とはあのような姿なのだろうか。あの姿は是非とも見習わなければならない

 ご自身の欲求を表に出さなかったウォノクさんは、子や孫たちのことばかり心配していた。日曜日になると、息子の教会の礼拝に参加するために西大門からの仁川行きを欠かさなかった。孫娘の学費と海外研修費を心配しつつ、ご自身のためにはあめの1粒すら節制された。

 貧しかった挺対協時代、助けてくれる人も休みもなく、ソン室長は毎朝、おばあさんたちのご飯を2釜ずつ作っていた。糖尿のひどいウォノクさんの雑穀のご飯と、それを嫌う他のおばあさんたちの白いご飯だ。

 「うちのおばあちゃんたちは遠くから見てもりーっぱだ…」。私たちにあいさつもせずに世を捨てたソン・ヨンミ室長は、立派に成長した我が子を見るように満足げな顔で、自身が真心を込めて世話する他所のお年寄りと比較し、口をとがらせながら軽口をたたいた。それは本当に好ましかった。一つも憎たらしくなかった。そしていつもありがたかった。そんな室長に一度もぞんざいな言葉を使ったことがない方こそ、ウォノクさんだった。いつも敬語を使っていた。

 「私は小さい頃から近所でふざけて歌を歌って歩いていたんだよ」。よほどのことがない限り、自分の欲求を表に出さずに節制してきたキル・ウォノクさんは、遂に子どもの頃からの夢だった歌手になった。いま私はそのアルバムの中のペク・ナナの「ノイバラ」を、原曲よりなおいっそう切なく艶やかに歌うキル・ウォノク・バージョンの「…南のくぅに、私のふぅるさと…」を泣きながら聴いている。

 私たちの共にした過ぎ去った時間、それは至極の愛だった。

 「記憶を忘れる薬を飲んだのかしら? なんで思い出せないんだろう…?」(映画「金福童」のラストシーンのキル・ウォノクさんのセリフ)

 ウォノクさん、ボクトンさんとソン室長に会いましたか? しばらくゆっくり休んでいてください。

 トェジママより。

2025/02/23 19:17
https://japan.hani.co.kr/arti/politics/52492.html

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