ナチス博物館で出会った日本軍「慰安婦」被害者44人の眼差し

投稿者: | 2025年3月11日

 キム・スノク、パク・ドゥリ、ムン・ピルギ、キル・ウォノク、カン・ドクキョン、イ・ヨンス、イ・オクソン、キム・スンドク、キム・グンジャ、シム・ダリョン、パク・オクリョン、ソン・シンド、キム・ヨンスク(北朝鮮)、クァク・クムレ(北朝鮮)、イ・サンオク(北朝鮮)、パク・ヨンシム(北朝鮮)。

 ドイツ・ケルンのナチス記録博物館で7日から開かれている企画展示「第2次世界大戦時代の第三世界」に紹介された日本軍「慰安婦」被害者44人の名簿の中の朝鮮出身被害者の名前だ。朝鮮半島をはじめ中国やインドネシア、マレーシア、フィリピンなどアジア地域の日本軍「慰安婦」被害者たちの写真は展示を訪れた観覧客をじっと見つめる。

 この企画展は第二次世界大戦終戦80年を迎え、ケルンで7日から始まり、6月1日まで開催される。第二次世界大戦が「ヨーロッパの戦争」というヨーロッパの歴史的通念を破り、アジアとアフリカ、オセアニアで起きた戦争の惨状を見せてくれる。この戦争は西欧ではなく第三世界でより多くの軍人が参戦したが、記憶の重りはヨーロッパをはじめとする西側の方に傾いている。

 そしてこの企画展では日本軍「慰安婦」被害問題が主に扱われている。世界女性デーの8日、博物館前には「平和の少女像」も設置された。かつてゲシュタポ(ナチス秘密警察)本部があった博物館の建物は、今や年間約9万人が訪れる歴史的な場所になった。

 展示会が開かれる前日の6日、ナチス記録博物館でハンギョレのインタビューに応じた展示企画者のカール・レーゼルさんは「少女像はアジアと太平洋地域から連れて行かれた女性の歴史を越えたものを語りかける。ヨーロッパで起きた戦争で暴力を受けた女性たち、今日の戦争について語らせる効果がある」と話した。ジャーナリストで歴史研究者のレーゼルさんは、独立研究団体で約40年間にわたり植民地国家の観点からみた第二次世界大戦の研究に打ち込んでいた。彼は「フィリピンとインドネシア、マレーシア、シンガポールなどを回りながら話を聞き、犠牲者インタビューを集めた」とし、「お金も、賠償も望まず、日本が自分たちの戦争犯罪を認めることを願うだけと話した韓国人犠牲者のインタビューが最も記憶に残っている」と語った。

 レーゼルさんが触れた人物は2013年1月、91歳で死去したファン・グムジュさんだ。展示館ではドイツ語と英語、フランス語、ポルトガル語に吹き替えられた肉声の証言を聞くことができる。「私の名前はファン・グムジュ」で始まるハルモ二(おばあさん)の肉声は、2000年に日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷で証言した時の声だ。また、19歳で日本の軍需工場に就職させるという言葉にだまされて「慰安婦」になることを強いられたファンさんについて「1990年代に日本政府に謝罪と賠償を求めた最初の女性の一人」だと紹介している。

 今回の展示は「アジア女性に対する日本の戦争犯罪」というタイトルで「慰安婦」問題に対する日本の責任を明確に問う。1990年に創立した「韓国挺身隊問題対策協議会」の活動と2000年の国際法廷を紹介し、「日本政府は責任を負って被害者に補償金を支給しなければならない」とも文言も含まれている。日本政府は2015年12月に締結した韓日「慰安婦」合意でこの問題が全て解決済みだと主張している。しかし博物館側は「被害者たちは(合意締結に)参加しておらず、日本の安倍晋三首相は『慰安婦』が日本軍によって『強制拉致』されたという証拠がないと再び宣言した」とし、「日本政府が第2次大戦当時、日本が犯した犯罪を批判的に調べることを拒否し続けたため、合意は失敗した。2025年まで変わったことはない」と明示した。

 展示では日本の朝鮮人強制徴集と1945年広島と長崎への原子爆弾投下で被爆者になった強制動員労働者の話も取り上げられた。 「日本は13才または14才の学生15万5000人を徴集し、彼らは日本軍のために武器と装備を運搬し、船と汽車に荷物を積んだ」とし、「1万人の朝鮮人少年兵が戦線に送られた」という説明書きもあった。広島に建設された韓国人原爆犠牲者慰霊碑の写真と共に、1945年8月広島と長崎への原爆で命を失った労働者5万人に関する紹介も載せられた。朝鮮半島を越えて1930〜40年代日中戦争の歴史と1937年南京大虐殺、日本軍のインドネシア侵略もあまねく取り上げた。

 レーゼルさんは少女像をはじめとする「慰安婦」問題について、日本政府が敏感に対応してきたこともよく知っていると語った。展示期間中、一時的に少女像を設置する過程も、ベルリンなど他の地域の少女像の展示がそうだったように、順調ではなかった。ゲル市のヘンリエッテ・レーカー市長が今年初め、少女像を博物館前の公共敷地ではなく、博物館近くの民間敷地に設置しようと提案した。レーゼルさんは「我々はすでに2年前から企画展示を準備している。ところが昨年12月、レッカー市長が京都に行ってきてから、ケルン市は市当局が市有地など公共敷地に記念物を設置する決定を単独で下すことはできないとし、市政府傘下の分科委員会である政治委員会の検討と判断が必要だと主張した」という。レーゼルさんをはじめとする展示企画者たちは「私たちは戦わなければならなかった」とし、ケルン市民団体と連帯してケルン市長と市議会、政党に公開手紙を送り、マスコミに積極的に知らせるなど、レーカー市長の決定に問題を提起した。その後、政治委員会が全会一で今の場所に少女像の設置に賛成したことで、レーカー市長も一歩後退せざるを得なかったというのが、レーゼルさんの説明だ。

 レーゼルさんは「市当局は公には日本が影響力を及ぼそうとしたことを認めていない。だが、昨年ケルン市とデュッセルドルフの日本総領事が会った時、総領事はケルンが属したノルトライン・ベストファーレン州では、誰も少女像を建てようとするアイディアを望まないと話したと聞いた」とし、「私たちは他の色々な消息筋から同じ話を聞いた」と伝えた。ケルン市との対立の末、少女像の設置が可能になったレーゼルさんは、展示館の片隅にこの問題を扱ったマスコミ報道も一緒に展示した。

2025/03/10 19:15
https://japan.hani.co.kr/arti/international/52633.html

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