韓国初の戒厳令が敷かれたのは南労党による選挙妨害内乱「済州4・3事件」だった【寄稿】

投稿者: | 2025年4月20日

 私はかなり年を取っておられる方々と、好んで昔の話をする。本で見る歴史とは違って、生の出来事そのままの、生き生きとした現実を観察できるからだ。数年前に大阪で、済州島出身のおばあさんたちと済州4・3事件について対話を交わしたことがある。3人のおばあさんがいたが、それぞれ1930年生まれ(キムさん)、35年生まれ(キムさん)、39年生まれ(ハンさん)で、そのうち35年生まれと39年生まれの二人は同じ村の出身だった。済州4・3事件についてこのように生々しい証言を聞いたのは、そのときが初めてだった。

39年生まれ:4・3というのをご存じか?

私:メディアで聞いてはいます。あのとき済州島の住民が大勢犠牲になったんですよね。

39年生まれ:大勢死んだどころじゃない。あのとき、私たちの祖父、祖母、そして父も死んだ。

私:誰が殺したんですか?

35年生まれ:(口を挟んできて)以北の人たちが殺したんだよね。

私:以北というと? 北朝鮮から人が来たということですか?

39年生まれ:以北の人間が来たわけじゃなくて、命令を受けたということ。あのころは昼と夜が違う世界だった。昼間は南側の世界で、夜には以北の指令を受けている人間の世界。

私:なぜ殺されるんですか?

39年生まれ:あのとき、私たちの父は面(日本の村にほぼ相当)事務所の係長だった。(35年生まれが口を挟んできて)すごく背も高くて、美男で、おしゃれだった。私はいまだに思い出す。

私:何か人民裁判のようなのをやったんですか?

39年生まれ:そんなのはない。ただ殺した。

39年生まれ:ただ単に刺し殺した。

私:竹やりでですか?

39年生まれ:竹やりじゃない。最近の人たちはあまり知らないだろうね。金串なんだけど、それを鋭く研いであって。それでただ単に刺す。あのとき私は9歳だったが、いまだに思い出す。

私:生き残った家族は?

39年生まれ:母は助かった。けれど後に母も病気で死んだ。あのころは本当につらかった。兄弟たちが助けてくれて助かった。

私:(35年生まれに)おばあさんのところの御家族は?

35年生まれ:うちでは死んだ人はいない。よそ者が来ると知って、あらかじめ逃げたりとか。代わりにそいつらはうちの家をすっかり焼いた。

私:なぜそんな仕打ちを?

35年生まれ:私には兄が3人いたが、みんな軍隊に行ってたりして。軍人の家族だと、そういうことかね。

私:(30年生まれに)おばあさんは、大丈夫でしたか?

30年生まれ:あのころ、うちの父は日本で製油所をやっていた。代わりにいとこの家で私たちを守ってくれた。いとこの家が警察署長だったりしていて。

私:日本にはなぜいらっしゃったんですか?

30年生まれ:後で母が父を追って日本へ行き、私にも来いと言い続けてた。あのころ私は、卒業して済州税関に務めてたけど、(済州島で)到底生きていくことはできないなと。怖くて。

2025/04/20 08:30
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2025/04/14/2025041480010.html

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