東アジアの「弱い輪」…朝鮮半島と台湾【コラム】

投稿者: | 2025年5月23日

 「日本はまだ長崎に5000人の兵士を有しており、台湾から部隊を撤収した後、朝鮮のことを考えている。フランスと米国は、朝鮮との前回の事件(丙寅洋擾と辛未洋擾)をまだ解決できていないだけに、何が何でも兵船を用いて日本を助けるだろう」

 台湾有事がただちに朝鮮半島の安全保障に致命的な影響を及ぼす国家的災難につながる可能性がある事実を、朝鮮が理解することになったのは、今から約150年前の1874年夏のころだった。これらすべては3年前の小さな事件によって始まった。日本と清の両方に朝貢していた琉球王国(現在の沖縄)の付属島しょである宮古島の人たちを乗せた船が、1871年10月、漂流の末に台湾北側に到着した。外部からの侵入に驚いた台湾の原住民(蕃族)が彼らを攻撃し、何と54人も死亡する惨事が発生した。

 日本の明治政府は、虎視眈々と狙っていた琉球を自国の領土に編入しようとする工作に、この事件を活用することを決める。「死亡した琉球の人々は日本国民」だと主張し、1874年5月、台湾出兵に乗り出したのだ。近代国家日本が初めて敢行した海外出兵だった。

 この過程を目を開けて見守るしかなかった清は大いに動揺した。清がすぐに思い浮かんだのは、朝鮮の安全保障の危機についてだった。清の外務省にあたる総理各国事務衙門と台湾問題の交渉のために日本に派遣された大臣の沈葆楨(1820~1879)は朝鮮に書簡を送り、この脅威にあなた方単独で対抗するのは困難であるため、「フランス・米国と通商条約を結び」備えるよう忠告した。

 朝鮮は8月6日、清の礼部に「どのように対応すべきか教えてほしい」と助けを求め、外交文書の格式の問題(書契問題)で一時的に外交関係が断絶していた日本との関係改善を試みる。その最終結論が、1年半後の1876年2月に締結された朝日修好条規(江華島条約)だった。日本が台湾を攻撃したいわゆる台湾有事が、様々な連鎖反応を経て、朝鮮の開港につながったのだ。

 朝鮮半島と台湾の安全保障が一体になっている事実は、その後も繰り返し確認された。1950年夏に朝鮮戦争が勃発すると、駐韓中華民国(台湾)大使の邵毓麟(1909~1984)は「安堵のため息」を漏らした。米国などが韓国を支援すれば「共産党が海を渡って台湾を侵攻することはない」という確信を持ったからだ。逆の状況が発生した場合、われわれはどのようにすべきなのだろうか。台湾問題は「シェシェ(謝謝)」で済ますことは難しい苦痛の難題であることは間違いない。

2025/05/21 18:45
https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/53277.html

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