厳しい労働しながら不法滞在した韓国人労働者たち…2000年代以降、様々な形で定着

投稿者: | 2025年6月7日

 5月15日に訪れた日本の横浜寿町の街には、もの寂しさが漂っていた。夕方からオープンした居酒屋「メグ」では、ほろ酔いになった人たちがぽつりぽつりと座り、切なく「演歌」を歌っていた。片隅では荒々しい口調で街をうろついている人々が目についた。ここで会ったある日本人の飲食店の店主は「30余年前までは毎日明け方5時になれば仕事を探して集まった日雇い労働者が街を埋め尽くすほどだった」とし、「一目で見ても半分以上は韓国人だった」と振り返った。

 横浜港から1キロほど離れた寿町は、かつて東京山谷、大阪釜ヶ崎とともに日本3大貧民街であり、日雇い労働の求人・求職市場である「寄せ場」があったところだ。 一時、居住人口95%が男性であり、ほどんどが日雇い労働者で、寿町の「ドヤ」(長屋)で寝泊まりしながら、港や土木・建設現場で働いていた労働者であった。「ドヤ」は「宿(やど)」の逆さ言葉で、劣悪な環境の臨時生活空間を意味する。この日訪れた寿町にもかつてドヤとして使われていた「長生館」や「大和荘」のような旅館の建物が立ち並んでいた。一時、この街だけでも、ドヤ用の建物が110棟余り、8千室に近い部屋があったという。内部に入ってみると、過去、日雇い労働者が泊っていた長屋村の姿がそのまま残っていた。トイレもない3坪(10平米)余りの空間が廊下に沿って両側にびっしりと並んでいた。宿泊費が1日約2千円程度に過ぎないうえ、現金さえあれば国籍や不法滞在の有無を問わず、お客さんとして受け入れてくれたところだ。

 寿1丁目から2丁目に位置する「ドヤ通り」は1965年の韓日国交正常化以後、日本に来た人々を称する「韓国人ニューカマー」が一番先に集団居住村を形成した地域とされる。韓日国交樹立後も、韓国政府が海外旅行を自由化するまでの約20年間、日本に行ける韓国人はごく少数だった。ほとんどが日本人との結婚を通じてビザを取得したか、大きな危険を冒して密航船に乗った人たちだった。

 1989年に海外旅行の自由化措置が行われ、事実上この時から「韓国人ニューカマー」の歴史が始まった。一般の人に合法的な日本入国の道が開かれると、「短期観光ビザ」を取得し、不法滞在(オーバーステイ)を覚悟して日本に出稼ぎに来た労働者がその先頭に立った。特に寿に不法滞留を問わない日雇い労働市場があったうえに、まずこの地域に位置した済州出身の「オールドカマー」たちがニューカマーたちにかけ橋の役割を果たしたものとみられる。日本在住の女性学者高鮮徽(コ・ソンフィ)さんは『日本に出稼ぎに行った済州島人』(北済州文化院)で「寿への韓国人の流入は済州島人から始まり、中華食堂街の在日済州島人コミュニティと関係が深いと言える」と説明した。

 不法滞留日雇い労働者の暮らしは危険極まりないものだった。1980年代末から寿町の労働市場の韓国人不法滞留労働者などを支援してきた「神奈川シティユニオン」のパン・ジョンオクさん(日本名:平間正子)は5月15日、ハンギョレとのインタビューで、「寿のドヤにはいつも韓国人労働者がいて、彼らの人生はとても厳しいものだった」と振り返った。当時、工事現場で鉄筋が胸に突き刺さる事故に遭ったり、ヤクザたちと喧嘩になり、ひどい目に遭うケースも多かったという。滞在期間が過ぎたビザでは、まともな病院に行くことも、労災を申請することもできなかった。同じ団体の村山敏執行委員長は「当時、韓国人ニューカマーが5万人程度だったが、寿の韓国人日雇い労働者が2千人余りだった」とし、「ほとんどが不法滞在者であり、一部は偽造パスポートを使ったり強制出国された後、家族の名前で再び入ってくる場合もあった」と語った。

 初期のニューカマーである寿日雇い移住労働者は2000年代に入り、日本社会から次第に姿を消し始めた。日本政府が2002年韓日ワールドカップを控えて多くの不法滞在者たちを追放したことで、寿の韓国人日雇い労働者たちもやはり集中「ターゲット」になった。同じ時期に日本政府が合法的な入国の窓口を大幅に拡大した理由もある。1998年、金大中(キム・デジュン)大統領と日本の小渕恵三首相の「韓日共同宣言:21世紀に向けた新たなパートナーシップ」を前後にして、合法的な経路で多くの「ニューカマー」たちが日本に渡ってきた。さらに1999年、日本政府は韓国人が1年間働きながら滞在することを許可する「ワーキングホリデービザ」に続き、2001年には韓国人などを含む優秀な外国人人材の迎え入れを拡大し、2006年には韓日無ビザ入国などを認めた。円高と韓国就職難などもニューカマー移住を拡大する要因になった。

 ニューカマーたちの夢は2000年代以降、東京新宿の新大久保へとつながった。初期のニューカマーたちは主に自営業、留学、就職、結婚などで日本に滞在したが、依然として一部不法滞在者もいた。異邦人たちに対する反応は、東京の灰色のビルほど冷たいものだった。1990年代初めに日本に来て新宿に定着したニューカマーのAさんはハンギョレに「今は新大久保が韓国文化を象徴する街になったが、初期には本当に韓国人関連の基盤が何もなかった」と振り返った。さらに「今となっては信じられないかもしれないが、わずか40年前には日本の飲食店でご飯を食べようとしても『朝鮮人には牛丼を売らない』と言われた」とし、「韓国人たちはバブル経済時代、日本人を相手にした新宿周辺で居酒屋や食堂などを中心に商圏を形成していった」と語った。日本のバブル経済が崩壊し、初期のニューカマーの生活もジェットコースターに乗らなければならなかった。しかし、韓国が1997年の通貨危機(IMF)を経験したことで、仕事を求めて日本に渡る韓国人たちが絶えなかった。

 特に2000年代初め、韓日文化開放によるドラマ「冬のソナタ」の人気と韓日ワールドカップの影響で、第1次韓流ブームが新大久保の街を中心に始まった。さらに「K-POP」と「Kドラマ」などが人気を集め、2010年から現在まで2〜4次韓流ブームが続いている。この地域は1965年の韓日国交正常化以前に日本に定着したオールドカマーとニューカマーをつなぐ「架け橋の役割」もする。ニューカマーたちが日本に初めて足を踏み入れたり、初期の位置を取る過程でオールドカマーに頼ったり協力しながら、早い定着が可能だった。現在は韓流ブームを経て韓国人社会が完全に定着した後、日本に来た40代以下の若年層は「ニューニューカマー」とも呼ばれる。新宿韓国商人連合会の金日(キム・イル)理事長は「初期のニューカマーたちが日本語をまともに学ぶ所もなく日本に来て新聞配達、ホテルの清掃、皿洗い、日雇い労働で定着し、韓国人定着村を作り上げた」とし、「1世代のニューカマーたちが日本社会に根を下ろし、韓流ブームと共に2世代がそれ以上に活発に動いているため、韓国人たちの地位が今よりさらに高まるだろう」と期待を示した。

 韓日国交正常化で平凡な韓国人が日本に合法的に入国する道が開かれてから60年になった。ニューカマーたちが日本に本格的に定着して35年が過ぎたが、依然として課題は残っている。特にニューカマーたちは歴史問題から相対的に自由だが、韓日政府の間で対立の溝が深まる度に、新大久保通りをはじめとする韓国人社会は浮き沈みを経験している。2012年当時、李明博(イ・ミョンバク)大統領が独島(トクト)を訪問した直後、日本の右翼勢力が新大久保に集まって反韓デモを行ったのが代表的な事例だ。日本国内の一部極右主義者が「慰安婦少女像」などを問題視して行うヘイトスピーチは今も続いている。

2025/06/03 09:18
https://japan.hani.co.kr/arti/international/53410.html

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