100年ぶりに日本から韓国に戻ってきた「観月堂」…続く悲運の歴史ミステリー(2)

投稿者: | 2025年6月25日

しばらくの間学界では景福宮内にあった可能性が提起されが、この日の懇談会でソウル大学のイ・ギョンア副教授(建築学)は「当時の地図資料と北闕(プックォル)図形、東闕(トングォル)図など様々な文献を見ると、その可能性は希薄だ」と話した。宮殿や宮家の17~20世紀の建築物に比較すると、七宮 〔現在の青瓦台(チョンワデ)内に位置する朝鮮王宮の祠堂〕の部材や儀仗の格式が似ているが、七宮の70%の大きさという点などから、大軍級王宮祠堂と推定された。

華やかな丹青も注目すべき要素だ。国家遺産庁のソン・ヒョンスク文化遺産専門委員は「1834年に再建された昌徳宮通明殿(チャンドックン・トンミョンジョン)と類似しながらも19世紀後半の王宮丹青の特徴まで含むなど多様な時期にわたっている」とし「宮殿の建物ではないが、王宮側が管理した事例とみられる。丹青の様式研究に向けた史料的価値が非常に大きい」と判断した。

 このため、部材状態の観月堂をいつ、どこで復元するかも論議になる見通しだ。イ・ギョンア教授が有力視している元所在地の候補は3カ所だ。現在、「開かれた松峴(ソンヒョン)広場」として使われている松峴洞敷地〔ソウル鍾路区(チョンノグ)と通義洞(トンウィドン)〕一帯の彰義宮(チャンウィグン)跡(東洋拓殖銀行社宅跡)、かつて「月宮(ウォルグン)」と呼ばれた月城(ウォルソン)衛宮跡だ。このうち、松峴洞敷地は当初、純宗(スンジョン)の妃である純貞孝(スンジョンヒョ)皇后の本家跡で、後日、朝鮮殖産銀行の社宅跡として使われた。純宗の義父である尹澤榮(ユン・テギョン)氏は娘を太子妃として冊封する過程で巨額の借金をして「債務王」というニックネームまでつけられたが、この過程で観月堂の建物が担保になった可能性がある。

問題は、松峴洞敷地には文化体育観光部が推進する「李健熙(イ・ゴンヒ)寄贈館」(仮称)が予定されており、他の候補地もすでに建物が建てられているか、所有主がいて原型復元が容易ではないという点だ。興宣(フンソン)大院君の李是応(イ・ハウン、1820~1898)氏が滞在した雲峴宮(ウンヒョンドン)のサランチェとして知られた我在堂(アジェダン)が解体20年ぶりに坡州(パジュ)に建て直されたのと同様に進められる可能性もある。

国家遺産庁・遺産政策局のパク・ヒョンビン国外遺産協力課長は、「部材の状態で丹青や内部構造などの研究を続け、元の所在地が明確に確認されればいいが、それでも確認ができない場合は帰還遺産として臨時に移建(建築物を移す)することも念頭に置いている」と明らかにした。佐藤住職は「この件が成功すれば、韓日関係回復のシンボルになるだろう」とし「観月堂があった場所には観音像をたたえる新しい施設を建て、資料館を含めて観月堂の歴史も伝えたい」と話した。

チェ・ウンチョン国家遺産庁長は「観月堂の帰還は文化遺産を媒介とする国家間の信頼と共感が成し遂げた象徴的事例」とし「歴史的価値を共有する活用と復元方法などを模索する予定」と話した。

2025/06/25 10:48
https://japanese.joins.com/JArticle/335467

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