◇韓日関係は満ち潮と引き潮のように近づいては遠ざかるを繰り返しながら60年という長い歳月を過ごしてきた。その間に現在の関係を形成するのに礎石となった、いまでは忘れられつつある記憶がある。肯定と否定が交差しながらも結局ひとつの指向点を持っている6つの記憶を呼び戻した――。
1972年5月7日、47人の日本の青少年が韓国の土を踏んだ。宮崎県の宮崎電子工業高校(現宮崎第一高校)の生徒らだ。「戦争の痛みを乗り越えて立ち上がった韓国の若者を見せよう」というこの学校の初代理事長の意向で行われた修学旅行は、65年に韓国と日本が国交を正常化してから初めての大規模海外学生観光だった。
5カ月後の10月24日午前8時には佐賀県の近江兄弟社高校の生徒91人が船に乗り釜山(プサン)の釜関フェリーターミナルに降り立った。4泊5日の修学旅行期間に生徒らは釜山と慶州(キョンジュ)、ソウルの昌慶宮(チャンギョングン)と昌徳宮(チャンドックン)などを回り日本に戻った。両校の訪問後、日本の私立中高校には韓国修学旅行ブームが起きる。1970年代初期に200~300人台だった日本人修学旅行生の規模は79年には5000人台に増えた。
◇近い上にハワイの半額
3つの理由だった。近い・短い・安い。時差がないため国内旅行をするように海外旅行ができ、移動時間が少なく期間と比べ多くのスケジュールをこなせた。船で韓国に5泊6日の修学旅行に行く費用は2万4000円あれば良かった。日本の海外修学旅行先1位だったハワイの7泊8日・5万円の半額水準だ。「観光立国」で外貨を稼ごうという意志が強かった朴正熙(パク・チョンヒ)政権の韓国もこうした動きを歓迎した。73年の中央日報の記事には当時の雰囲気が表れている。
「多くの日本の中高生が修学旅行候補地として韓国の慶州や扶余(プヨ)などを希望しているということが明らかになり、この地域への日本人観光客が急激に増えそうだ。(中略) 450余りの中高校生200万人に対する旅行地世論調査で68万人以上が慶州と扶余を希望し最上位を占めたというのだ。特に生徒らは経費の面でも韓国があまりかからず希望しているという…(中央日報1973年5月14日付)」。
日本の修学旅行生の韓国訪問は1980年代にさらに拡大する。83年7月に韓国政府が修学旅行を目的とした入国ビザを免除してだ。翌年福岡県の小倉商業高校を始まりに日本の公立学校でも韓国を修学旅行先に選択することが多くなる。
87年9月に日本政府が発表した「テンミリオン計画」はこれに翼を付けた。5年以内に海外旅行者の規模を1000万人水準に増やすことが骨子で、自国民の海外旅行文化定着が名分だった。本心では日本の莫大な貿易収支黒字に反発して市場開放圧力を加える各国の世論を自国民の海外観光消費でなだめようとする意図があった。
◇戦争危険国→中高生も行く安全な国
政府が海外旅行を勧めると韓国を訪れる日本の修学旅行生も増えた。おりしも韓国では86年にアジア大会、88年にソウル五輪など世界的なスポーツイベントが開かれた。日本人修学旅行生規模は80年代後半に2万人、90年代中盤には4万人に迫った。98年の金大中(キム・デジュン)・小渕共同宣言、2002年の韓日ワールドカップ共同開催、『冬のソナタ』など韓流ブームで韓日関係も薫風をむかえた。韓国は修学旅行生だけでなく日本人が楽しむ場所へと変貌する。
1970年代の日本の修学旅行団の訪韓がこうした変化に出口を開いたという評価が出ている。韓国文化観光研究院のチョ・アラ研究委員は「日本の高校生の訪問は韓国のイメージを『戦争の脅威がある貧しい分断国』から『高校生も団体で旅行に行ける安全な国』に変えた。韓国も観光地だという考えがこの時から日本に本格的に広がった」と話した。
2025/07/13 11:50
https://japanese.joins.com/JArticle/336172