李承晩の執念が生んだ相互防衛条約…韓米ともにウィンウィン

投稿者: | 2025年8月1日

◇大韓民国「トリガー60」⑭「安定の囲い」韓米同盟

1950年6月24日深夜(ワシントン現地時間)、韓国の張勉(チャン・ミョン)駐米大使は李承晩(イ・スンマン)大統領から電話を受けた。北朝鮮の南侵から9時間後のことだった。「武器が足りない。米国に緊急支援を要請してくれ」。25日午前1時、張大使は韓豹頊(ハン・ピョウク)書記官を伴って国務省を訪れ、東アジア・太平洋担当次官補のラスクと会った。ラスクは「国連安全保障理事会に持ち込むべきだ」と言うだけで、武器の提供は約束しなかった。

 翌日正午、李承晩から再び電話がかかってきた。「危機的状況だ。すぐにトルーマン大統領に会って、どんな武器でもいいからもらってくれ」。3時間後、張大使一行は涙ぐみながらホワイトハウスでトルーマンに会った。トルーマンは米国独立戦争や第1次・第2次大戦で欧州と米国が互いに助け合った歴史を語って慰めただけで、武器は約束しなかった。同行していたアチソン国務長官が「国連決議を全面的に支持する」というメモを渡したにすぎなかった。前夜に国連安保理で北朝鮮軍の撤退を求める決議が採択されたことに言及したのだった。

当時、米国は1200万人だった兵力を160万人に縮小するほど第2次大戦の疲弊が重くのしかかり、トルーマンは国連の名の下に国内の反戦世論を乗り越えようとしていた。翌朝、張大使は米国海・空軍の支援決定を通報され、また涙を流した。その日の午後10時45分、国連安保理は「加盟国が必要な支援を提供するよう要請する」という決議83号を採択した。続く7月7日には、米国主導の国連軍司令部創設が決議された。当時ソ連は、中国国民党の国連代表権行使に抗議して安保理への出席を拒否していた。歴史的な偶然だった。

北朝鮮の南侵から国連支援決議までに80時間を要した。この瞬間は韓国の運命が重大な局面を迎えていた時であり、第2次大戦後の共産勢力の拡大と日本の再軍備を同時に抑えることで、東北アジアの平和と安定の核心軸となった韓米同盟が、事実上、胎動した時間でもあった。

戦争が膠着状態に陥ると、1951年6月23日、国連駐在ソ連大使のマリクが休戦を提案した。国連軍も終戦を望んでいたが、韓国の事情は異なっていた。再侵略能力を持つ共産軍を残したまま休戦し、国連軍が撤退することは受け入れられなかった。李承晩はこれを「自殺を強要する行為」として反対した。2年に及ぶ休戦交渉と戦争が続く中、米国は日本・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピンと相互防衛条約を結び、太平洋防衛線を構築した。韓国はその外側だった。

1952年11月、「韓国戦争(朝鮮戦争)終結」を公約に掲げたアイゼンハワーが大統領に当選した。彼は「韓半島(朝鮮半島)の中立化」まで口にした。休戦交渉は韓国の安全保障抜きで最終段階に突入していた。

休戦の最後の難題は「捕虜交換」だった。共産側はイデオロギー戦争の大義名分を守るため、捕虜全員の送還を条件とした。一方、国連軍側は捕虜の自由意志による選択を主張した。休戦に反対していた李承晩は、1953年6月18日午前0時から2万7000人の反共捕虜を国連軍にも知らせずに釈放した。アイゼンハワーは李承晩に対し「敵を一人増やした」と驚愕しつつも、「深く真摯な感情を感じた」と反応した。

◇米国、休戦反対の李承晩に辞任計画まで

実は李承晩の独断的な決定を受けて、米国は李承晩を排除する計画(「エバーレディ作戦」)まで立てていたが、最終的に放棄した。むしろ李承晩は米国側に「日本などと結んだ安保条約と同様のものを韓国にも提供すべきだ」と強く主張した。休戦を急いでいた米国も結局これを受け入れた。7月12日、韓米両国は「相互防衛条約を締結する」との共同声明を発表し、半月後に休戦協定に署名した。1953年10月に署名された相互防衛条約は、翌年11月に発効された。李承晩の意地と決断が勝ち取った、安保と繁栄の“囲い”だった。

条約署名後、李承晩は「子孫たちが何世代にもわたってこの条約の恩恵を受けることになるだろう」と話した。その予言は証明された。当時米国は韓国を政治・軍事・経済の負担と見なしていた。しかし韓国は第2次大戦後の成功事例として登場した。韓米同盟は自由民主秩序の優位性を示し、全体主義勢力の挑戦を抑止する重要な装置となってきた。米国も多くの利益を得た。

李承晩は相互防衛条約と共に、米国の経済・軍事支援を含む合意覚書も締結し、同盟の実体を整えた。米国は1955年だけで7億ドル(現レートで約1054億円)規模の軍事・経済援助を提供した。当時の韓国政府予算の3年分に相当する額だった。10個の予備師団、79隻の海軍艦艇、111機の航空機を確保し、韓国軍は体制を整え、経済再建に着手することができた。

同盟締結から72年が経過したが、米国では今なお韓国を安保公約の重荷と見る向きがある。韓国内の一部でも、米軍を韓国の軍事・司法主権を侵害する占領軍と見なす声がある。客観的事実として、米軍は韓国の招待によって駐留しており、韓国が望まなければいつでも撤退せざるを得ない。

在韓米軍はその規模と構成が調整によって変化してきた。「アジアの防衛はアジア自身が責任を負うべき」とするニクソン・ドクトリンにより、1971年には6万人いた在韓米軍のうち2万人が削減された。1977年にはカーター大統領が全面撤収計画を発表したこともあった。冷戦終結と共に、1990年代初頭に「東アジア戦略構想(EASI)」によってさらに削減され、現在は2万8000人が駐留している。米軍基地が後方の平沢(ピョンテク)に統合され、防衛の主な責任は韓国が担っている。

韓米軍事同盟は4つの枠組みで運用されている。作戦統制と連合防衛体系、軍隊の地位に関する法的体系(SOFA)、防衛費分担体系、武器体系だ。作戦統制権は1950年7月に李承晩大統領が国連軍司令官に移譲し、1978年に韓米連合司令官へと移された。2000年代に入り、同盟運用は「米軍主導・韓国軍補助」から「韓国軍主導・米軍補助」への転換が進行中だ。

◇作戦統制権交渉は政治ではなく軍事の問題

2006年、ブッシュ政権は韓国の能力を考慮し、遅くとも2009年までには作戦権を円滑に転換できると判断した。韓国が「3年だけ延期しよう」と求めると、当時のハドリー国家安保補佐官は「3年という時間は無限の時間へと変わる」とし、ブッシュの任期中に転換を完了すべきだと要請した。作戦権の転換は、米国国内でも軍部を含む各部門の複雑な利害が絡むため、大統領の決断があってこそ可能だということだった。

反米感情の核心要因だった在韓米軍地位協定(SOFA)は、1991年と2001年の2回にわたる改定を経て、日本やドイツのSOFAとほぼ同じような方式で運用されている。第2次改定交渉時、韓国側は「SOFAはリビングルームのソファのように、主人と客の双方に快適でなければならない」として、米国側と国内の反米論者を同時に説得した。防衛費分担は漸次的に増額され、比較的安定的に運用されてきた。基本原則は「現地発生」費用を受入国が負担するというものである。しかしトランプは軍事作戦費まで言及し、同盟の難題として浮上している。

武器体系は韓国の装備が米国の体系と互換性を保って運用されている。韓国は過去10年間を基準として米国の武器の三大輸入国の一つになった。現在トランプは、同盟国に対して国防費を5%まで増額するよう要求している。

北朝鮮の挑発抑止とアジア太平洋の安定維持を目的とする韓米同盟は、平和と繁栄という果実を共有してきた。米国にとっても成功した同盟の模範事例となった。韓米同盟は今後も両国に必要とされるだろう。ここで問題が2つある。一つは、米国が海外軍事役割と財政負担を急速に縮小しようとしている点。もう一つは、米国が同盟の重心を対北抑止よりも対中牽制に置いている点だ。費用は妥協の余地があるが、目標にはその余地が狭い。

王道はない。同盟を時代の要請に合致させなければならない。第一に、在韓米軍の運用を台湾海峡まで拡大しようとする、いわゆる「戦略的柔軟性」を尊重しつつ、米軍の現地費用は韓国が負担し、艦艇・航空機の整備など軍需分野の互恵的協力を拡大する必要がある。第二に、韓国は「依存型同盟」から「自立型同盟」へと発展しなければならない。そうしてこそ、負担を減らそうとする米国の必要性と、国家の自律性を高めようとする韓国の意思を調和させることができる。その核心は、軍事的判断に基づいた作戦権の転換と、「潜在的核」の要諦であるウラン濃縮能力を確保する問題だ。イデオロギーや政派が入り込めば、国家安全保障は危機にさらされる。

宋旻淳(ソン・ミンスン)/元外交部長官

2025/08/01 11:10
https://japanese.joins.com/JArticle/337046

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