◇大韓民国「トリガー60」㉑ ソウルオリンピックと2002年ワールドカップ
韓国はいつ先進国となったのか。かつては1991年だ。同年12月、「関税及び貿易に関する一般協定(GATT)」会議で、韓国を先進国と見なすと発表された。96年10月には「先進国クラブ」と呼ばれる経済協力開発機構(OECD)に加盟した。2021年7月には国連貿易開発会議(UNCTAD)が韓国の地位を開発途上国から先進国に変更した。先進国は主に経済を基準としているが、国家の総合力を考慮しないわけにはいかない。スポーツはその一翼を担う。韓国は88年オリンピック(五輪)を、2002年ワールドカップ(W杯)を主催した。2018年平昌(ピョンチャン)冬季五輪まで、大会を開催するたびに韓国は変化し、国際的地位も変わっていった。
◇地球規模に拡大した韓国人の意識
五輪は政治的だ。宣言し、雄弁に語る。1936年ベルリン大会がその見本だ。ヒトラーは、ドイツが第一次世界大戦の敗北の屈辱を乗り越え、欧州の中心に戻ったことを宣言した。第二次世界大戦敗戦国の日本も64年に東京でベルリンの例に倣った。88年ソウル五輪はその変奏だ。韓国は外勢の支配と戦争の廃墟の上に近代化を成し遂げ、先進国への飛躍を予告した。近代化を語るとき、第3共和国の大統領・朴正煕(パク・チョンヒ)を避けることはできない。五輪も同様だ。
76年8月19日午後、朴正煕は青瓦台(チョンワデ、旧大統領府)でモントリオール五輪選手団27人を迎えた。この席で「我々も数年経てば五輪を開催できるほどの経済力を持つだろう」と語った。78年秋には全国体育大会の開会式で、80年代にはアジア競技大会はもちろん五輪も誘致するという期待を示した。
朴正煕が79年12月に死亡すると、五輪誘致の議論は停滞した。翌年末、状況は急展開する。大韓オリンピック委員会(KOC)は12月3日、「ソウル市長が88年五輪のソウル開催を保証する」という電報を国際オリンピック委員会(IOC)本部に送った。何があったのだろうか。全斗煥(チョン・ドゥファン)が動いた。クーデターで権力を掌握した全斗煥は五輪の意味と効用に注目した。「五輪を誘致して韓国の能力を国際的に誇示し、分裂した国論を結集しよう!」
80年11月6日、KOCの緊急常任委員会が招集される。常任委員たちは五輪誘致を議論する席であることさえ知らなかった。内容を伝えられた常任委員たちの態度は否定的だった。するとKOC委員長の曺相鎬(チョ・サンホ)が胸から手紙2通を取り出し読み上げた。この席にいた金永基(キム・ヨンギ、当時韓国バスケットボール連盟総裁)は当時のことを鮮明に覚えている。
「静かに聞いていると、大統領の直筆の手紙だった。『大統領全斗煥』と書かれ、その後『反対する人はいますか?』と尋ねる。そこで誰が手を挙げるだろうか」
同月30日、全斗煥は教育部長官の李奎浩(イ・ギュホ)に五輪誘致申請書をIOCに提出するよう指示した。ついに81年10月30日夜11時45分、ドイツ・バーデンバーデンでフアン・アントニオ・サマランチIOC会長が第24回五輪のソウル開催を確認する投票結果を発表した。ソウル52、名古屋27。不利だと思われた予想を覆す勝利だった。ソウル五輪の意味は大きく3つある。
第一に、スポーツイベントとして成功した。韓国は金メダル12個、銀メダル10個、銅メダル11個を獲得し、総合順位4位となった。歴代最高の成績だ。大会運営では黒字2520億ウォン(現レートで約268億円)を記録。総支出5890億ウォン、総収入8410億ウォン。財政黒字には政府出資金371億ウォン、国民寄付金565億ウォンなど寄付金2341億ウォンが含まれ、純利益は179億ウォンといえる。
第二に、東西に分断された五輪が再び一つになった。西側は79年ソ連のアフガニスタン侵攻を糾弾し、翌年モスクワ大会をボイコットした。共産陣営は4年後のLA大会に不参加だった。『ハンド・イン・ハンド(手に手を取り)』を謳ったソウル大会には160のIOC加盟国が参加した。冷戦体制は終焉に向かっていた。89年11月9日ベルリンの壁が崩壊した。91年12月26日、ソ連は解体された。
第三に、韓国人の意識世界を不可逆的に変えた。冷戦時代、スポーツは効果的な政策手段だった。86年アジア大会と88年五輪はブラックホールのように韓国社会を吸い込んだ。2つのイベントの間に起きた市民革命が時代の転換を告げた。最後の軍出身大統領による五輪開会宣言は象徴的だった。独裁は不可能となり、文化は開放され、韓国人の視野は地球全体へと拡大した。
ソウル五輪から37年。五輪はもはや最も重要なスポーツ大会ではない。国民はメダルが国威を高めると信じてはいない。毎晩のプロ野球が生活に活力を与え、週末に炸裂する孫興慜(ソン・フンミン)のゴールが喜びとなる。五輪とスポーツのパラダイムは挑戦を受けている。制度と文化、意識の変化まで求められている。「体育英才学校設立」のような主張は時代遅れだ。すでに体育中・高等学校や大学は存在し、その効用と限界は目に見えている。
◇外貨危機を克服した自信の表れ
そして2002年W杯。同年6月、大韓民国は特別だった。障害も、差別も、対立も、嫉妬もない夢のような世界。大人も子どもも、男性も女性も、障害者も外国人労働者も赤いTシャツを着て街にあふれ出た。W杯は「持っている人」や「力のある人」だけの祝祭ではなかった。誰も等しく幸福だった。赤く熱い6月は、韓国人が夢見た大韓民国、完成されたパズルのようだった。
W杯の開催は韓国スポーツ史上、最大の事件だったかもしれない。五輪を開催し、国際舞台で多くの成果を挙げて世界10大スポーツ強国の一角に加わったが、W杯ほど韓国を丸ごと揺さぶり、世界の目を輝かせたイベントはなかった。外貨危機を克服し、世界的イベントを誘致して完全に成功させた韓国人の誇りは、最も高いところに達した。
W杯は新しい世代を生んだ。「W世代」だ。彼らは延べ2100万人を動員した路上応援とW杯熱の中心だった。かつて歴史の主役を担った「4・19世代」(1960年4月19日の学生主導の民主化運動に参加した世代)や「6・3世代」(1964年6月3日の大学生デモを主導した世代)、「386世代」(1990年に30代だった民主化と近代化を象徴する世代)の背景には政治意識があった。10代後半から20代のW世代は、個人主義に基づく水平的結合の産物だった。バックパック、インターネット、携帯電話、ミネラルウォーターのボトルなどが彼らのアイコンだった。彼らは誰かに指示される前に、自ら動いた。
W世代は自信にあふれていた。その自信は前向きな態度として現れた。70年代「維新反対」、80年代「独裁打倒」、90年代「落選運動」、2000年代「アンチ運動」に見られるように、韓国社会は否定的な命題が支配していた。W世代は「夢は叶う」といった肯定的メッセージを叫んだ。近代以降100年間、韓国人を抑圧してきた西洋に対する恐怖感や劣等感を振り払ったのだ。
W世代は大韓民国と太極旗を自らの表現様式として採用した。テレビ中継画面上の国名は「韓国」から「大韓民国」に変わった。赤色と太極旗を用いたW世代の多様なファッションは、社会底辺にしこりとして残っていた「レッドコンプレックス」と厳粛主義の禁忌も払拭した。「赤くなろう」と誤解されかねない「Be the Reds」というスローガンにも誰も抵抗しなかった。
◇「基本に忠実であれ」ヒディンクのメッセージ
6月の奇跡は、W杯4強という成果に集約される。世界的スターのいない韓国チームが決勝の門まで進んだ。やはり成績は重要だった。グループリーグで敗退していたら、『オー必勝コリア』の歓声も、数百万の赤い悪魔たちの路上応援もなかっただろう。4強の神話があったからこそ、フース・ヒディンクは韓国サッカーの名誉の殿堂に名を刻むことができた。ヒディンクは韓国社会に強いメッセージを残した。
第一に、基本に忠実であれ。彼は韓国選手が両足を使えるという、我々が知らなかった長所を見出した。しかし体力が弱いと診断し、厳しいトレーニングから解決策を見出した。第二に、試練を通じて強くなる。敗北を受け入れ、強豪とぶつかって競争力を養った。第三に、公正な競争。ヒディンクは学閥・地縁・既得権を認めなかった。基準は実力のみだった。その結果、朴智星(パク・チソン)や李雲在(イ・ウンジェ)などが育った。
選手たちはW杯後、欧州の舞台に本格的に進出した。孫興慜や金玟哉(キム・ミンジェ)、李康仁(イ・ガンイン)の登場も、結局は2002年W杯の遺産だ。しかし光が強ければ影も濃くなる。代表チームの試合だけに観客が集中し、国内リーグは閑散としている。昨年は代表チーム監督の任命をめぐる論争で、サッカー協会長が国会に呼ばれることもあった。「ヒディンク・リーダーシップ」に対する郷愁は、韓国サッカーの停滞や後退を示している。
ホ・ジンソク/韓国体育大学教授
2025/08/18 14:29
https://japanese.joins.com/JArticle/337702