「私たちは機械でない」 全泰壱の叫び…時代を揺るがす「火」になった

投稿者: | 2025年9月9日

毎朝、私はソウル清渓川(チョンゲチョン)全泰壱(チョン・テイル)記念館の扉を開けて兄に会う。写真の中の笑顔、手垢がついた遺品、くねくねした文字が55年前のその日を証言する。彼は過去でなく今日を生きる人のように近づいてくる。展示室で目にするものは単なる追憶でなく今でも続く質問だ。

兄の時間は大邱市南山洞(テグシ・ナムサンドン)で始まった。1948年にその家で生まれた兄は暫し温かいを家族の中で暮らした。父の事業の失敗と生活苦は長男だった兄をあまりにも早く大人にした。青少年になる前に平和市場の「駒」となり、幼いの肩に時代の貧困がのしかかった。70年11月12日、兄が家を出た最後の朝を今でもはっきりと覚えている。夜間中学校の月謝150ウォンを払えず心配していた私は「お金はいつくれるのか」と催促した。兄は笑って「数日だけ待てばよい。すべて解決するから」と言った。

 その日の夜、兄は家に戻らなかった。永遠に帰ってこなかった。後に読んだ兄の日記には「私は戻らなければいけない」「神よ、私が一滴の露になるために私をすべてを捧げるので私を哀れに思ってほしい」という文が残っていた。彼はすでに心の準備をしていた。あの日の朝、兄にわがままな要求をした私は長く申し訳ない思いで生きなければならなかった。

当時の平和市場の日常は残酷だった。換気も照明も不足した屋根裏部屋のような作業場。平均年齢15歳のミシン縫製工は一日14~16時間働いた。月給はわずかコーヒー2杯分にすぎなかった。狭い通路は布から出る油のにおいが充満し、換気扇がないためホコリと糸屑がそのまま肺に入った。針が刺さって出血したり目が痛くなることも多かったが、まともに治療を受けるのは難しかった。当時の新聞記事にも「夜中に窓のない屋根裏部屋から機械の音だけが聞こえる」という証言があった。

◆時代を揺るがした「プロメテウスの火」

1960~70年代、韓国は輸出第一主義を前面に出しながら安い労働力を基盤にして経済成長を推進した。縫製・繊維・かつらなど労働集約型産業が国家成長の土台となったが、その裏では多くの女工と青少年労働者の健康と青春が犠牲になった。労働庁の人材は不足し、監督官は大企業の工場だけにいた。小さな縫製工場は「監督対象でない」とし、事実上、法の外側に存在した。70年11月13日、22歳の青年裁断士は平和市場の入口で自分の体に火をつけた。「私たちは機械でない」「私の死を無駄にしないでほしい」。彼の叫びは大学街と聖堂、工場に広まった。一部のメディアは「生活苦の悲劇」と縮小したが、霊安室に集まった人々の涙と怒りは労働現場に向かった。ソウル大・延世大・高麗大生は「勤労基準法を遵守するべきだ」と叫んだ。当時ソウル大法学部生だった市民運動家の張琪杓(チャン・キピョ)は「全泰壱以降、学生運動の道が変わった」と回顧した。抽象的な民主主義から抜け出し、現実の労働問題と民衆の生活に向き合うことになる転換点だった。学生運動は方向を変えた。その間、大学街は民主主義と民族主義という巨大談論を穿鑿したが、全泰壱の死から学生たちのスローガンは「勤労基準法を守れ」「労働者の生存権を保障しろ」に変わった。大学生は路上に出て女工と共にデモを行い、全国各地に労働夜学を設けた。

全泰壱は宗教・法曹・文化界など韓国社会全般に大きな衝撃を与えた。ムン・イクファン牧師は彼を「我々の時代の予言者」「不法を世の中に叫んだ殉教者」と言った。天主教正義具現司祭団は労働者の権利のために全国的なミサを開いた。チョ・ヨンレ弁護士は全泰壱の手記と遺書、同僚の証言を集めて『全泰壱評伝』を執筆した。抑えられていた声を復元し、新しい社会的議題を提示した宣言だった。

詩人の金芝河(キム・ジハ)は「プロメテウスの火」とし、白楽晴(ペク・ナクチョン)は「菩薩行」と解釈した。「ミシンは回る、よく回る」のような労働歌謡は彼の魂と結びついた集団的記憶を生み出した。YMCA・YWCA・女性団体は労働者無料診療所と夜学を支援した。日本労働活動家と米国・欧州の人権団体が全泰壱事件を声明で発表し、国際労働機関(ILO)会議でも韓国の劣悪な労働現実が議題として扱われた。

全泰壱の火は単に一人の青年の怒りでなく制度的な変化の始まりだった。70年代後半の勤労監督官の拡充、女性・青少年労働者保護の強化が続き、81年に産業安全保健法が制定された。しかし初期の法は現場の危険を十分に反映せず「実効性のない法」という批判を受けた。

87年6月の抗争以降、全国の工場労働者は大闘争に入った。2700余り労働組合が結成された。勤労基準法の遵守と団体交渉権の保障を要求した。この結果、週44時間勤務制が導入され、88年に最低賃金制が施行された。しかし使用者側の反発と政府の微温的な態度のため制度は絶えず揺らいだ。90年代の派遣勤労者保護法はむしろ「合法的非正規職化」という批判を受けた。2000年代の勤労基準法全面改正、母性保護強化など進展もあったが、政策の後退と労使の葛藤は繰り返された。

今日の現実はどこまできたのか。2024年にも2000人以上の労働者が労働災害で命を失った。クーパン徳坪(ドクピョン)物流センター火災、泰安(テアン)火力発電所のキム・ヨンギュン青年の死、SPC製パン工場の死亡事故、ポスコENC建設現場の墜落死。宅配ライダーの死、事件名は異なるが構造は同じだ。安全よりもコストが優先され、責任は外注と下請けに転嫁される。

◆全泰壱の母・李小仙「烈士でなく同志」

プラットホーム労働者はアプリの呼び出しと評点に従属するが、法的には個人事業者とされ、労災補償から排除される。宅配労働者は雨が降っても雪が降っても「1件あたりの手数料」のために走らなければならない。移住労働者は未払いと災害を何度も経験する。

週5日勤務制が導入され、最低賃金が毎年引き上げられたが、現場の声は「法があっても守られない」だ。労働組合組織率は依然として14%前後にとどまり、非正規職比率は全体就業者の30%を上回る。労働者の多数は「労働組合」の外側に立っている。一部の大企業労働組合の利己主義は社会的な信頼を揺るがしている。正規職と非正規職、元請けと下請け、韓国人と移住労働者の差はさらに深まった。兄が夢見た「すべての労働者の権利」はまだ完成していない。

私は兄を「焼身した烈士」として記憶しない。母の李小仙氏は「烈士ではなく同志と呼んでほしい」と言った。彼は不遇な人を見れば「一日中憂鬱になる」とし、常に弱者側に立った。幼い妹の学費を準備しようとし、靴磨きや商売をする子どもたちに温かい食事を与えた。空腹の同僚の少女にパンを分け与える姿が今も目に浮かぶ。持つものはないが心が豊かで愛情があふれていた。このため最後の選択として「人間らしく働く権利」を話すことができた。

彼の死は私の人生を変えた。私は労働社会学を勉強し、英国で学位を取得した後、研究と教育、政治活動を経て現在、全泰壱記念館を守っている。若者は全泰壱の銅像の隣で写真を撮り、SNSに笑顔を載せる。兄の精神が「剥製になった過去」でなく「生きている疎通」として続いていることを確認する。

よくこう尋ねられる。「兄と母の生を担って生きるというのは重いのではないか」と。しかし私は重くない。彼の火は今も消えないで燃えている。労働権の普遍化、安全な仕事場、労働尊重文化。その課題は依然として現在形だ。正規職・非正規職、内国人・移住労働者、プラットホーム・下請け労働者すべての制度的転換がなければいけない。

私たちはよく「変化はすでに実現した」という。しかし現場は首を横に振る。変化は宣言ではなく変化に取り組む人たちの粘り強い努力から生まれる。世の中を変える力は結局、人にある。兄の全泰壱は言った。「私を知るすべての人、私を知らないすべての人…大変で果たせなかった、そしてまたやらなければならないことをあなたたちに任せたまま、しばらく逝く」。

彼が任せたものは依然として重い。しかし共に取り組めばその重みは希望となる。「私は人だ。あなたも人だ。私たちは機械でない」。この単純な真実の前で「K労働」が世界の基準になる日がくることを希望する。

チョン・スンオク/全泰壱記念館館長

2025/09/09 15:10
https://japanese.joins.com/JArticle/338514

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