韓国の極右勢力「暗黒化」の背景には鬱憤が

投稿者: | 2025年11月21日

 以前の稿で、米国の極右市民の怒りや嫌悪のような感情は、自負と羞恥心という日常感情が様々な社会変動によって「暗黒化」した結果だということを見た。だが、表面化した極右感情は米国と韓国で類似しているが、その根源にある日常感情は両国でかなり異なる。ならば、韓国の極右化を推進した日常感情とはいかなるものなのかを見る必要がある。

 今の若い世代には馴染みが薄いかもしれないが、以前は「恨(ハン)の民族」ということがよく言われた。韓国人は「恨」という感情を抱いて生きていく民族だというのだ。この「恨」とは何か。韓国民族文化大百科事典の定義は以下の通りだ。「欲求や意志の挫折とそれに伴う人生の破局などと、それに直面した偏執的で強迫的な心の姿勢と傷が意識的、無意識的に絡み合った複合体を指す民間用語。わだかまり」

 「恨の民族」や「恨の芸術」のような概念が韓国を象徴する言葉として定着したのには、20世紀初めに活動した美術評論家の柳宗悦が大きな役割を果たしたことが知られる。柳は1922年の『朝鮮とその芸術』で「中国芸術は意志の芸術、日本は情趣の芸術、朝鮮は悲哀の芸術」と主張した。1)

 柳の語る「悲哀の美」は「恨」概念と結び付き、彼の芸術論に影響を受けた多くの学者たちによって韓国芸術と民族性を説明する言説へと拡張された。ちなみに「白衣の民族」という言葉も柳が言い出したものだ。

 柳が朝鮮の芸術品を愛したことは明らかだ。だが、朝鮮芸術を悲哀と「恨」感情に閉じ込めることにより、朝鮮民族を集団トラウマから抜け出せない受動的な被害者として固定化したという批判も少なくない。特に民主化と経済成長がかなり進んで以降、「恨の民族論」は次第にその影響力を失っていった。代わって「韓国は恨の民族ではなく興(フン)の民族」だという言説が韓国人の間で反響を呼んだ。2002年の韓日ワールドカップで韓国サッカー代表チームが4強入りしたことで、興の民族論は全盛期を迎える。こうして「恨の民族論」は消え去るかに思われたが、2010年代に日本の学者によって復活させられる。哲学者の小倉紀蔵は、朝鮮性理学の理気論によって、日本などの他国と完全に区別される韓国人の気質を説明する。彼によると、韓国人は道徳的というより「道徳志向性」が強い民族だ。とりわけ韓国人特有の感情である「恨」について小倉は、「道徳的完璧性である理に対する熱望が挫折した時に発生する感情」と規定している。2)

民族性や国民性とは異なる「日常感情」

 韓国人論や日本人論のような、民族性や国民性についての言説がしばしばそうであるように、小倉の韓国人論も直観的な説得力はあるものの、批判すべき部分も少なくない。何よりも生産様式、制度、文化においてまったく異なる社会である朝鮮と大韓民国が、果たして性理学の概念でまとめ得るのかは疑問だ。小倉の説明は結局、朝鮮王朝が日本帝国の植民地となり、改めて民主共和国となる数百年あまりの間、韓国人の何らかの「固有の本質」が変わらずに保たれたという主張だからだ。ただし、その本質主義的要素をひとまずカッコで囲って現象に集中すれば、小倉の主張はこの稿のテーマである韓国人の日常感情、すなわち「鬱憤」を議論するための良い出発点になりうる。鬱憤もまた、ある面では「道徳的熱望が挫折した時に発生する感情」だと言えるからだ。

 混同を避けるために明確にしておこう。この稿が焦点を当てている日常感情(quotidian emotion)とは、固有で本質的なアイデンティティーをあらわにする概念ではない。例えば「鬱憤」は韓国人の日常感情だが、ドイツ人や米国人にも、いくらでも見出せる。米国人の日常感情である自負と羞恥心(以前の連載を参照)が韓国人からも見出せるのと同じだ。日常感情を論じるのは、本質的な固有性に頼らなくても、感情の社会政治的ダイナミクスで社会による、あるいは国による違いをうまく示せるからだ。この時、「恨」や「興」も論じることはできようが、その「恨」と「興」は例えば「鬱憤」や「喜び」などの一般的な感情名へと翻訳可能でなければならない。だが、もし「恨」や「興」を他の社会では見られない韓国人のみの特性だと考えるなら、言い換えれば「民族固有の感情」が実在すると前提するなら、その仮説そのものが興味深くはあるものの、日常感情とは異なる位相で論ずるのが適切だと思われる。

 特定の感情は、ある国でよく表現され、またその国の人々の間でしばしば対話の素材になる。一方、別の社会でその感情はそこまで頻繁に表現されたり関心事になったりすることはない。すなわち「ある社会の日常感情とはどのようなものか」という問いは、「その民族(国民)だけの独特な感情とはどのようなものか」、すなわち本質的固有性の問題ではなく、人間の多様な感情の中でどのようなものが突出しているか、すなわち「程度」と「様相」の問題なのだ。またその程度と様相は、その社会の歴史的、社会的、文化的特性によって構造化されたものだ。日常感情は固有でも、唯一でも、本質的でもない。それは特定のきっかけによっていくらでも変わりうる。

「鬱憤」、公衆保健のテーマに

 韓国人の代表的な日常感情は鬱憤(embitterment)だ。鬱憤の辞書的な意味は「もどかしくて悔しい、またはそのような気持ち」だ。この稿が扱う「日常感情としての鬱憤」は辞書的な意味も当然含むが、かといって個人の心理に限定されるわけではない。最近の精神医学分野の研究成果は、鬱憤が不平等や疎外などの社会経済的条件と深く結びついていることを繰り返し強調している。まず、鬱憤という感情がどのように最近の公衆保健および臨床医学の主要テーマとなってきたのかを見ていくことにする。

 鬱憤は一般的な意味において怒り(anger)と似ているようにみえるが、かなり感覚的に異なる感情だ。それは触覚的には熱さ(hotness)であり、味覚的には(英単語から推測できるように)「苦さ(bitterness)」に近い。「bitterness」は「悔しさ」と「悲痛さ」という意味も持つ。鬱憤は「こういう仕打ちは不当だ」あるいは「自分の努力や貢献が無視された」という考えが保たれることで、感情的な痛みが激化した状態だ。繰り返される失職、職場での不当な待遇、いわゆる「パワハラ」などが鬱憤を引き起こすよくある事例だ。すなわち、鬱憤は「不公正だ」という認識と結びついている。

 早くから鬱憤の研究を開拓してきた精神医学専門医のミハエル・リンデンは鬱憤を、怒りよりも複合的な感情だと定義する。彼によると、鬱憤とは「攻撃されて怒りが生じ、復しゅう心が湧いているものの、反撃する余地がないため無気力になり、何か変わるだろうという希望もない状態で屈辱が結びつくことで生じる感情」だ。3)

 彼は2003年に「心的外傷後鬱憤障害(PTED、Post-traumatic Embitterment Disorder)」の診断名を提案しており、2009年に鬱憤の自己測定ツールも開発している。国際疾病分類(ICD-10、WHO、1992)でPTEDは、深刻な心理的ストレスに対する特異反応、すなわち病理的ストレス反応という意味において、ストレス反応の一種であるF43.8コードに分類されうる。4)

 鬱憤、PTEDの研究は最初にドイツで始まり、発展した。ドイツ統一後、東ドイツ出身の市民の間でうつ、不安、暴力性などの様々な精神医学的な疾患が急増した。このことに注目した研究者たちがその原因を追跡していく中で出くわしたものこそ、まさに鬱憤という感情だった。西ドイツの市民に比べて相対的に貧しかった東ドイツ出身の市民は、統一後の社会統合過程で差別、侮蔑、無視にさらされた。それは深刻な精神的ストレスと身体的な痛みとして発現した。これこそまさに、今日のPTEDと呼ばれる症状だ。このように鬱憤研究は、当初から経済的不平等や文化的に認められていないといった社会対立構造と密接に関係していた。

韓国人の鬱憤、ドイツの6倍

 韓国でこのことに関する研究を主導してきた学者の1人、精神医学専門医のハン・チャンスは、2014年のセウォル号惨事の生存者に対する集団心理カウンセリングを通じて、PTEDについての社会的議論の扉を開いた。彼はセウォル号惨事の直後、ある寄稿でこのように警告している。「セウォル号惨事のように、天変地異ではなく、信頼できない社会システムによって悲劇が増幅されると、社会構成員たちは集団的に不信と怒りを感じる。不信が積み重なり、鬱憤へと発展しうる」5)

 またハン・チャンスは「鬱憤を通してみる韓国人のメンタルヘルスセミナー」で、「うつは薬でかなりの効果がみられるが、PTEDは薬では治療がうまくいかない」と語っている。

 2018年に保健政策学者のユ・ミョンスンらは、「韓国人の鬱憤」調査を企画、実施した。この調査によると、韓国人の54%が鬱憤状態にあり、重症以上の鬱憤を抱える人の割合はドイツの6倍だった。ユ・ミョンスンの研究チームは2024年に「韓国人の鬱憤と社会的、心理的ウェルビーイング管理方策のための調査」と題する報告書を発表した。これによると、回答者の49.2%が長期的な鬱憤状態に置かれていることが明らかになり、深刻な水準の鬱憤を抱える回答者の割合も9.3%だった。深刻な鬱憤を抱える人々の60.0%は自殺を考えたことがあると答えた。精神医学専門医のチェ・ジョンホは、韓国人の鬱憤が特に強い理由について、次のように説明する。

 「努力に対して適切な補償があれば公平だろうが、韓国では非常に多くの努力をしなければならないため、適正な補償を受けていると考えるのは困難だ。当然、たやすく怒りが生じざるを得ない。幼いころから絶えず競争しなければならないが、良い職場を得るのは難しく、他人を協力の対象ではなくたたき潰す対象だと思う気持ち、また自分は土のスプーンで本当に無限に苦労しているのに、金のスプーンの連中はとても容易によい暮らしを手に入れているという不公正は、怒りの触発剤になる。…ある程度年を取った人たちから見ると、若者たちの鬱憤は漠然とした感情であって無知や錯覚だとも言いうるが、当事者の立場からすると、その感情の基本は不幸で、自分のものが奪われているという鬱憤だ」6)

 結局、韓国社会の過度な競争ムード、不公平な補償などが、鬱憤を触発し強化する背景となっているということだ。ドイツ統一の過程で鬱憤が集団的感情として大きく噴出したように、韓国人の鬱憤の水準が有意に高いなら、それは韓国の民族的、あるいは遺伝的特質のせいというより、韓国の制度および文化のせいである可能性が高い。次回は鬱憤およびPTEDのメカニズムと共に、社会の不公正と不平等がどのように鬱憤と関係しているのかを具体的に見ていこう。

1)柳宗悦、ソン・ゴンホ訳(1976)『한민족과 그 예술』タムグダン。『朝鮮とその芸術』(1922)

2)小倉紀蔵、チョ・ソンファン訳(2017)『한국은 하나의 철학이다 -理와 氣로 해석한 한국 사회』モシヌンサラムドゥル。『韓国は一個の哲学である:理と気の社会システム』

3)미하엘 린덴·김종진·채정호·민성길·정찬승. (2021). ‘한국인의 울분과 외상후울분장애’. 군자출판사. 33.

4)同書。133.

5)한창수. (2014.4.25.) 세월호 비극, 울분 장애냐 외상후 성장이냐. 중앙일보.

6)同書。42.

2025/11/20 09:00
https://japan.hani.co.kr/arti/politics/54778.html

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