炎天下で砂混じりのごはん食べ昼夜工事…海外建設1兆ドルの礎になった(1)

投稿者: | 2025年11月26日

1997年だけではなかった。74年にも通貨危機があった。原因は世界を襲った第1次石油危機。原油価格が天井知らずに高騰し、輸入額は大きく増えたが、世界的に景気が低迷し輸出は振るわなかった。74年の貿易収支は24億ドルの赤字だった。外貨準備高がせいぜい10億ドルだった当時の韓国としては耐えられない規模だった。また別のドル獲得の窓口だったベトナム戦争特需も消え、66~75年に支払われた対日請求権資金も終わろうとしていた。

そんな中で重化学工業育成に向け設備を買うためのドルが必要だった。四面楚歌に追い打ちをかけられたようなものだった。青瓦台(チョンワデ、韓国大統領府)の呉源哲(オ・ウォンチョル)第2経済首席秘書官は著書『韓国型経済建設6』でこのように回顧する。「金正濂(キム・ジョンリョム)青瓦台秘書室長は出勤するやいなや電話をかけた。『香港から金を借りるのは解決できたか』『原油代金は何日か待ってくれと言え』などだった。会社の社長が不渡りを防ぐのに電話しているようだった」。

 韓国はこの危機を自ら克服した。石油危機を起こした中東に突破口を見いだした。建設進出だった。中東のせいで体験することになった通貨危機を中東でドルを稼ぐことで解決したものだ。この時本格化した韓国の海外建設は昨年には累積受注1兆ドルを記録した。輸出累計1兆ドルは半導体と自動車に続き建設が3番目だ。

韓国が初めて海外建設を受注したのは65年、タイでのことだった。現代建設が長さ98キロメートルの2車線高速道路を540万ドルで獲得した。その後ベトナムをはじめとする東南アジアで韓国の建設会社が活動した。だがいずれも数十万~数百万ドルほどの小規模事業だった。

中東進出第1号は三煥(サムファン)企業だ。73年末にサウジアラビアで2000万ドルの高速道路事業を受注した。インドネシアでともに働いたイタリアの会社が「中東に進出してみろ」と勧めて関連情報を提供してくれた。三煥企業の施工能力を認めてのことだった(『朴正熙時代と中東建設1』、チョン・ソンファ)。

ドルのため苦心していた韓国政府がこの知らせを聞いた。ちょうど政府も「中東がオイルマネーで建設事業を途轍もなく行っている」という情報を日本で聞いたところだった。呉源哲首席秘書官は74年初めに中東進出案を朴正熙(パク・チョンヒ)大統領に報告し、「われわれに3つの長所がある」と提言した。「最初に、中東は環境がよくなく先進国の人材は行こうとしないが、韓国には軍人精神で武装した数十万人の除隊将兵がいる。2番目に、人件費は先進国よりあるかに安く、技術は後進国より優秀だ。3番目に、どの国よりも速く工事ができる」。そして付け加えた。「これまでは若い女性労働者が輸出して経済を支えました。これからは男性が出るべきです」。

政府は全方向で支援に出た。中東の工事発注情報を収集した。74年4月には商工部の張礼準(チャン・イェジュン)長官を代表としてサウジアラビアに初の閣僚級使節団を派遣し、建設、技術、国防など包括的協力を議論した。朴大統領は建設部と中央情報部(現国家情報院)を呼び、「徹底的に監督して不良工事が出ないようにし、ダンピング入札をできないようにせよ」と指示した。

韓国人労働者特有の勤勉誠実さに政府支援が加わり受注が相次いだ。74年にサウジアラビアのジッダ近郊の道路工事をした三煥企業は竣工を繰り上げてほしいという要請に夜も火を灯し24時間3交代で作業した。これを見たサウジアラビアのファイサル国王が「あのように勤勉な人たちに工事をもっと多くやらせるべき」と話したという逸話がある。「たいまつ神話」として知られる話だ。

◇「気温50度…冷たい水飲んで渇きは癒えず」

現代建設は76年、サウジアラビアのジュベイル産業港建設を9億3000万ドルで受注した。当時の韓国政府年間予算の25%に達する金額だった。中東建設契約額は順調に増え、77年に34億ドル、81年に127億ドルを記録した。83年には東亜建設が「世界8大不思議」のひとつといわれるリビア大水路工事を33億ドルで受注した。

2025/11/26 11:25
https://japanese.joins.com/JArticle/341483

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