国民の審判受けた尹大統領、「野党のせい」にはできない…残された三つの選択肢(2)

投稿者: | 2024年4月29日

(1から続く)
■金大中「少数与党政局では、独走と独善の居場所はない」

 しかし、選挙後も民主党が大統領と戦ってばかりではいられません。トップ会談を行わなければなりません。国政に協力すべきです。国民の暮らしが重要だからです。それが国民のための道だからです。トップ会談は民意の激しい噴出を与野党の政治指導者が抱え込み、政局を安定させることができるほぼ唯一の案です。

 歴史がそれを裏付けています。維新独裁が進んでいた1975年5月、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と新民党の金泳三(キム・ヨンサム)総裁がトップ会談を行いました。民主主義を求める金泳三総裁に、朴正煕大統領はこう答えました。

 「金総裁、私には私欲などありません。家内は共産党の銃に撃たれて死にましたし、こんな寺子屋のようなところで長く居座るつもりはありません。民主主義を進めます。だから、少しだけ時間をください」

 朴正煕大統領は野党議員の釈放、「東亜日報」の広告の正常化など、金泳三総裁のいくつかの要求を受け入れました。民主主義を進めるという約束は結局守りませんでしたが、トップ会談で山を越えたのです。

 1987年6月抗争の最中の6月24日、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領と統一民主党の金泳三総裁のトップ会談が開かれました。金泳三総裁は4・13護憲措置の撤廃と大統領直選制の受け入れを求めました。全斗煥大統領は改憲論議を再開するとだけ述べました。金泳三総裁はトップ会談の決裂を宣言しました。5日後の6月29日、与党「民主正義党」の盧泰愚(ノ・テウ)代表による「6・29宣言」が出ました。結果的に、金泳三総裁の要求を全斗煥大統領が受け入れたのです。

 1996年12月、金泳三政権は「労働法の強行採決」で政権が崩壊する危機に直面しました。1997年1月21日、大統領府で金泳三大統領、新韓国党のイ・ホング代表、新政治国民会議の金大中(キム・デジュン)総裁、自由民主連合の金鍾泌(キム・ジョンピル)総裁が与野党トップ会談を開きました。その後、与野党は2~3月の臨時国会で野党の要求どおり労働関係法を再改正しました。トップ会談で破局を防いだわけです。このようにトップ会談は、政権と国民、与党と野党の正面衝突状況で政局を収拾する非常に有効な手段として活用されました。

 大統領と野党代表たちとの対話の窓口が常設化されたケースもありました。1988年の第13代総選挙で作られた少数与党政局で、盧泰愚大統領と与野党代表は「5者会談」であらゆる懸案を取り上げました。当時、平和民主党総裁だった金大中大統領は後日、自伝にこのような言葉を残しました。

 「少数与党政局では妥協が最善だった。妥協というのは結局、折衝と譲歩であり、独走と独善の居場所はなかった」

 「少数与党政局だからといって野党が独走するわけではない。野党は徹底的に国民の意思を反映する必要がある。国政の責任を共有しなければならないからだ」

 まるで金大中大統領がタイムマシンに乗って飛んできて、尹大統領とイ代表に話しかけているようです。

 金大中大統領自身も政権を握った後、少数与党のねじれ国会と共に大統領職を遂行しました。野党「ハンナラ党」のイ・フェチャン総裁と7回にわたってトップ会談を行いました。これは「総裁会談」とも言われました。当初から2カ月に1回の定例化に合意しましたが、2001年1月が最後の会談でした。盧泰愚大統領の「5者会談」と金大中大統領の7回のトップ会談は、少数与党政局における政府野党協力の模範的な事例と言えます。
■審判を受けたにもかかわらず、「野党のせい」にするのか

 文在寅(ムン・ジェイン) 大統領も野党と非常に積極的に意思疎通を図り、対話しました。就任直後から与野党の代表や院内代表を大統領府に招いて政策協議を行い、外交の成果について説明しました。南北首脳会談、日本の輸出規制、新型コロナウイルスなどの懸案があるたびに、与野党の代表や院内代表に会いました。大統領と与野党5党院内代表の与野政国政常設協議体を作って成果を出したこともありましたが、野党「自由韓国党」の反対で会議が続くことはできませんでした。

 このように歴代大統領は例外なくトップ会談や与野党代表会談を頻繁に行いました。野党代表を国政のパートナーとして礼遇しました。就任後、野党代表と一度も会談したことのない尹大統領が異常なのです。

 最後に、尹大統領に残された選択肢を示すことでこの文を締めくくりたいと思います。尹大統領にとって4月10日の第22代総選挙以前と以後は全く違う政治環境です。総選挙以前は、国政の無能と乱脈ぶりを「野党のせい」にすることができました。一方、総選挙以降は「野党のせい」にするのは不可能です。国民が野党ではなく、政権に審判を下したからです。トップ会談後、尹大統領に残された選択肢は3つです。

 第一に、植物状態の大統領として残りの任期を耐え忍ぶ道です。国政の麻痺による被害はそのまま国民が被ることになります。

 第二に、国会によって弾劾訴追され、憲法裁判所によって弾劾される道です。尹大統領自身にも、国民にとっても不幸なものです。

 第三に、野党を国政のパートナーとして認め、政府野党協力を制度化する道です。大連立であれ、同居政府であれ、挙国内閣であれ、名前は何でもかまいません。これが尹大統領にとっても、国民にとっても、最善のシナリオです。

 もう一歩踏み込んで、任期を1年短縮して4年重任制(再選可能な任期4年の大統領制)を導入し、大統領の権力を分散させる改憲を主導するなら、尹大統領は第7共和国を大きく開いた大統領として歴史に刻まれるでしょう。皆さんはどう思われますか。

2024/04/28 21:14
https://japan.hani.co.kr/arti/politics/49861.html

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)