23年前に詩人崔泳美が受けた屈辱…韓日首脳「ビザなし妥結」秘話

投稿者: | 2025年6月22日

◇韓日関係は満ち潮と引き潮のように近づいては遠ざかるを繰り返しながら60年という長い歳月を過ごしてきた。その間に現在の関係を形成するのに礎石となった、いまでは忘れられつつある記憶がある。肯定と否定が交差しながらも結局ひとつの指向点を持っている6つの記憶を呼び戻した――。

2001年12月21日、ソウルの韓国外交通商部庁舎。同部の金慶根(キム・ギョングン)領事局長が明るい顔で記者らの前で言い出した。

 「韓日ワールドカップ期間を前後して1カ月間韓国人が日本にビザなしで入国できるよう韓日両国が合意しました」。

韓国政府の宿願事業だった日本ビザなし入国がついに発表された瞬間だった。

昨年日本を訪れた韓国人観光客は881万人。交流が活発ないまから見ればいぶかしく見えるが、韓国人は2002年のワールドカップ開催前には日本訪問が難しかった。日本大使館でビザの発給を受けなければならず、入国後も厳しい入国審査を経なければならなかった。

『三十、宴は終わった』で知られる詩人の崔泳美(チェ・ヨンミ)がワールドカップ直前の2002年3月に入国審査で体験したことは当時の雰囲気をよく見せている。ワールドカップを契機にした一時的なビザなし入国は同年5月中旬から施行のため3月にはまだビザが必要だった。

「福岡には何しにきたのか? 私は観光客だ。1人できたか? そうだ。なぜホテル予約をしていないか? 私は自由に旅行するのが好きだ。あなたは日本に友達がいるか? 福岡にはいないが横浜にいる。…3人の審査官が次々に私を尋問した。理解できないとなじる私に彼は私が一般的な慣行を破ったとして忠告した。今回は入国を認めるが今後は必ずホテルを予約しなければならない。そうでなければ私があなたを防ぐ。『I recommend you』(忠告)から『I warn you』(警告)に変わった彼の断固とした語調を私は忘れることができないだろう。

ようやく出国審査を抜けると「ホテル予約」と英語で書かれた看板が見えた。うれしさよりも先にだまされた気分だった。彼らの論理の通りならば福岡に到着した外国人は全員ホテル予約を終えた状態であるはずなのに、それなら空港の中のホテル予約窓口はどうしてあるのだろうか。私が韓国人なので差別待遇を受けたのではないか」(中央日報、2002年3月16日付)。

当時の韓日は経済格差が大きかった。日本に不法滞在する韓国人は2001年基準で5万6000人に達した。このため日本政府、警察、法務省は犯罪と社会秩序混乱を理由に難色を示した。韓国政府は1993年8月に日本人に対し15日間のビザなし入国をすでに認めていた状況だった。「日本はしていないのになぜ韓国だけ日本人にビザなしにするのか」という韓国内の声もあった。

この時、パスポートパワーを高めるため韓国政府は積極的外交に転換した。金大中(キム・デジュン)大統領が就任した翌年の1999年3月から日本人のビザなし入国を30日に延長する破格の措置を取った。政策転換に慎重を期する日本政府の性格を考慮し韓国政府がむしろ日本人のビザなし期間を伸ばしてして名分を積んだ。日本の大衆文化に対する規制も緩和した。

韓国政府はその上で「ワールドカップを共同開催すれば両国国民が互いに交流しなければならない。韓国人に対するビザなしが必要だ」と日本政府を説得していった。すると、日本政府も徐々に方向を転換した。日本も外務省やはり韓国政府の立場に力を与えた。

事実ワールドカップを1年後に控えた2001年の韓日関係は最悪だった。2000年4月にに「新しい歴史教科書を作る会」が日本の侵略を美化した歴史教科書の検定を文部省に申請し日本の歴史教科書問題が浮上していた。韓国もやはり翌2001年8月にロシアの許可を得てクリル列島南端4つの島の周辺でサンマ漁の操業に入った。ロシアと領有権紛争中の日本政府は韓国政府に抗議し両国関係は悪化の一途にあった。自尊心をめぐる争いで世界的なイベントであるワールドカップを台無しにする恐れもあった。

日本の小泉純一郎首相の就任を契機に、2001年4月27日に金大中大統領と小泉首相が電話会談し出口を模索した。「地道に発展させてきた韓日関係の基調が教科書問題で損傷を受けるならば残念で遺憾なこと」(金大中大統領)、「重く受け止めている」(小泉首相)という対話が行き来した。

両首脳が事態を収拾しようということに合意し韓日関係は復旧に入った。2001年10月20日に韓日首脳は中国の上海で開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会談で互いに相手国民に一定期間ビザなし措置をすることにした。そして2001年12月21日にソウルで開かれた3回目の韓日ワールドカップ出入国共同委員会で韓国国民に対する日本政府の30日間ビザ免除に合意した。

当時外交通商部で領事局長を務めていた金慶根元在外同胞財団理事長は「政界で、特に金大中大統領が『未来を見なければならない』として積極的に推進し日本を説得していった。韓日両国の利害関係が自然と合致しビザなし措置を引き出した」と話す。

もちろんビザなし措置の常時化に進むには時間がかかった。韓国政府は日本人に対するビザなし滞在期間を2005年3月から90日に延長し、日本政府は修学旅行生と引率者(2004年3月)、愛知万博を契機にした90日間のビザなし(2005年3~9月)などでビザなし対象韓国人の範囲と滞在期間を少しずつ拡大し、2006年3月からは韓国人に対し90日間のビザ免除措置を断行した。韓国人に対するビザなし入国を認めても日本に害にならないということを見守ってきた日本当局が徐々に動いた結果だった。

韓国政府が1999年3月から先制的に日本人のビザなし入国期間を拡大した時から考えれば7年にわたった努力の成果だった。2000年6月から2002年7月まで外交通商部でアジア太平洋局長を務めた秋圭昊(チュ・ギュホ)元駐英大使は「国際関係では相互主義が重要だが、時に先に恩恵授与的な姿を見せることはとても効果がある。時間はかかるかもしれないが決して韓国が損をしない戦略」と説明した。また「外交事案を国内政治的な目的で活用しなかったため可能だった」と付け加えた。

コロナ禍で一時両国民のビザなし渡航が中断されたりもしたが、いまや相互のビザなし措置を踏み台として韓日間の交流はさらに活性化している。国交正常化60周年を迎えて6月から1カ月間は韓国の金浦(キンポ)空港と金海(キムヘ)空港、日本の羽田空港と福岡空港の4カ所で両国民専用の入国審査(ファストトラック)を運営する。長いと1時間ほどかかった入国審査が5分前後と大幅に減る。

国民大学日本学科のパク・チャンゴン教授は「今後入国審査ファストトラック制度を常設化下する一方、運用空港もやはり韓国人が多く訪れる成田、関西、新千歳などに拡大する案を模索しなければならない。ただ一方的な措置は難しいため韓国もこれに相応するファストトラック運用空港拡大などをあらかじめ念頭に置かなければならない」と話した。続けて「韓日が交通カードを両国で共通して使えるようにするなど交流を活性化できる斬新なアイデアを発掘していく必要がある」とした。

2025/06/22 10:54
https://japanese.joins.com/JArticle/335313

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)