韓国語で「黄色いシャツ」歌った…全斗煥「ナカソネサン、ホレタ!」(1)

投稿者: | 2025年7月6日

◇韓日関係は満ち潮と引き潮のように近づいては遠ざかるを繰り返しながら60年という長い歳月を過ごしてきた。その間に現在の関係を形成するのに礎石となった、いまでは忘れられつつある記憶がある。肯定と否定が交差しながらも結局ひとつの指向点を持っている6つの記憶を呼び戻した――。

ソウル大に留学中の日本人女性、篠原花綸さんが今春、日韓国交正常化60年を記念してキーホルダーを作り、販売を始めた。自宅近くの江の島(神奈川県藤沢市)と釜山の浜辺に打ち上げられた海洋プラスチックごみを集めて加工し、花と蝶をあしらっている(https://oceanloop60.com)。

 花は韓国の国花「無窮花」、蝶は日本の国蝶「オオムラサキ」。篠原さんは「花と蝶は互いを必要として生きています。これからも日韓が手を取りあって、海を守っていけたら、との思いをこめました」と話す。金色のリングで結ばれた花と蝶は、ホルダーの中で、くっついたり、離れたりしている。

1965年の国交正常化以降、日韓外交において、花と蝶のように心から初めて結びついた、と言えるのは1983年1月の中曽根康弘首相の電撃韓国訪問だろう。

中曽根首相が訪韓し、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領と会談して、韓国語で『黄色いシャツ』を歌ったというエピソードは日本の高齢層の中でも有名だ。しかし、日本の現職首相による初めての韓国公式訪問は当然、単なる首脳同士の友好親善のための舞台などではなく、互いの国益と外交戦略が複雑に絡み合った成果だった。それは、その後の日韓関係にも大きな影響を与えており、必然とも偶然とも言える数奇なデジャビュを感じさせる。もちろん、石破茂政権と李在明・新政権による現在の二国間外交にも示唆するところが多いと言えるだろう。

この訪韓をめぐっては中曽根氏自身が何度か字にしているほか、当時の日韓両政府の当局者たちが回顧した記録などが残っている。それらを総合すると、経緯はこんな風だ。

1982年11月、首相に正式に就任した中曽根氏は、直後に瀬島龍三氏(伊藤忠商事相談役)を自宅に招いた。そこで中曽根氏は「執権前から、内政よりもまず外交懸案に着手しようと考えていた。83年1月中旬の米国訪問はすでに内定しているが、その前に韓国との関係を正常化したいので、ぜひ力を貸してほしい」と伝えた。

このころの日韓外交は深刻なほどに落ち込んでいた。全斗煥政権は、韓国が日本の安全保障に寄与していることを名分に、合計100億ドルの経済協力を要請し、中曽根政権の前任の鈴木善幸政権は強く反発していた。さらに中曽根政権発足の直前には、日本の中国への「侵略」が「進出」に書き換えられたと各メディアが報じる「教科書問題」も起き、韓国や中国国内の対日世論もひどく悪化していた。

そんな事態を打開するためにも中曽根氏は電撃訪韓を思いつき、韓国に広い人脈を持つ瀬島氏に裏交渉を託した。瀬島は自身の親友で、韓国の与党、民主正義党幹部だった権翊鉉(クォン・イクヒョン)氏にすぐに連絡した。権氏は、全氏や民主化後初の大統領となった盧泰愚(ノ・テウ)氏と陸軍士官学校の同期で、全氏と極めて近い関係にあった。

瀬島氏は極秘に訪韓し、釜山(プサン)・金海(キムヘ)空港のVIPルームで権氏と会談。次に権氏が大阪に来て、経済協力を40億ドルとすることで大筋合意した。また、年末ぎりぎりに今度は中曽根氏の親書を携えて再度訪韓し、全氏と面会した。

こうした事前の環境整備の末、83年1月、中曽根氏は韓国を訪問する。初日の首脳会談後に開かれた全氏主催の晩餐会で、中曽根氏は「両国の間には過去において不幸な歴史があったことは事実であり、我々はこれを厳粛に受け止めなければならない。過去の反省の上にたって、我が国の先達はその英知と努力によって一つひとつ新しい日韓関係の礎を築いてきた」とあいさつした。このスピーチの冒頭と後半は、中曽根氏が訪韓までに猛勉強してきた韓国語で語った。

『黄色いシャツ』が登場したのは晩餐会の後の、いわば二次会だ。中曽根氏の首相秘書官だった長谷川和年氏によると、この席で全氏が日本で有名な演歌の『王将』を日本語で、中曽根氏は『黄色いシャツ』を韓国語で熱唱し、全氏が中曽根氏に「ナカソネサン、オレ、アンタニホレタヨ」と抱きついた、という。

このトップ外交によって、日韓政府間の関係は飛躍的に改善する。その最大の要因は、重い懸案だった経済協力問題が妥結したためである。ただ、政権発足直後、そうでなくとも国内問題が山積する中で、中曽根氏が瀬島氏という「密使」まで使って韓国との関係を打開しようと考えたことは注目に値する。東西冷戦の厳しい時代、すでに訪米が内定していた段階で、あえてリスクを覚悟してでも先に韓国訪問を選んだのは、日米韓の3カ国の連携を強化することが、日本にとって最重要だと認識していたからにほかならない。

この判断にそっくりなのは、2023年3月の尹錫悦大統領の日本訪問だ。当時、尹政権は翌4月に国賓として訪米する日程を早々と固めていたが、その前に東京に来ることを模索し、訪米の発表を控えていた。そのころすでに日韓政府間では、徴用工問題の妥結が近づいていた。しかし、徴用工問題の解決策の発表日が決定する前に、先に尹氏の訪日日程が固まり、日本政府の関係当局は総動員態勢で準備にあたった。

当時の岸田文雄首相と尹氏の晩餐会後の二次会を盛り上げたのは、『黄色いシャツ』や演歌ののど自慢ではなく「爆弾酒」だった。日本政府にとって、「過去史」である徴用工問題が事実上、政治決着をみたことはもちろん大きかったが、それ以上に意味を見いだしたのは、中国や北朝鮮とどう向き合うかという現在と未来の認識を共有できるパートナーと考えたことが、その後の蜜月につながった。

2025/07/06 08:50
https://japanese.joins.com/JArticle/335886

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)