相互依存の中、日本の後を追ってきた韓国、2024年に1人当たりGDPが逆転

投稿者: | 2025年7月18日

 植民支配国日本の企業は低賃金と苛酷な労働条件を強制できる韓国人労働者の渡日を望んでいた。1920年から「生きていく道を求めて」釜山(プサン)から下関へ(1905年開通)、済州(チェジュ)から大阪へ(1923年開通)行く船に乗る人が大きく増えた。在日韓国人の数は1920年の3万人から1930年に30万人、1938年には80万人へと増えた。

 1939〜1945年の間、本人の意思を無視した強制動員者数が66万7千人に達した。そのうち59%の39万4千人は炭坑と金属鉱山の地下労働に配置され、奴隷のように働いた。彼らを含め、1945年5月に210万人まで増えた在日韓国人は、解放と共に、先を争って帰国した。多くの人がポンポン船に乗って荒波の大韓海峡を渡った。翌年3月までの7カ月間で94万人が、1950年までに104万人が帰国を果たした。

 日本では、戦争で300万人が命を落とした。経済的損失額は1946年の国内総生産額に匹敵する規模だった。毎年物価が暴騰し、「国家も赤字、企業も赤字、家計も赤字」の経済危機が続いた。復興に数十年かかるとみられていた。

 ところが、1950年6月に勃発した朝鮮国戦争が「特需」をもたらした。米国が戦略物資を日本から調達する間、日本は不況期に積もった在庫を一掃した。輸出は毎月最高記録を更新した。1952年、1人当たりの国民所得が戦前の水準まで回復した。

 米国は1945年に日本を占領した際、北東アジア平和のために「日本を弱体化」しようとした。そのような対日政策は、中国共産党の大陸制覇の可能性が高まった1947年以降、「今後極東に発生する全体主義的戦争脅威を阻止する役割」を担わせるため、日本を再建する方向へと大転換を遂げた。

 戦後処理が終わると、日本の財界は「保守連合による安定政権」を求めた。親米保守勢力の安定的な執権を望んだ米国も、中央情報局(CIA)を通じてこれを助けた。1955年11月、保守連合政党である「自由民主党」が発足した。大蔵省、通商産業省と1955年7月に新設した経済企画庁などの政府機関が、企業と銀行を一糸乱れず指揮する戦時体制が再び稼動し始めた。米商務省はこれを「日本資本主義」と呼んだ。

 官主導の日本経済は1955年から1972年まで成長率が平均9.3%に達する超高速成長を遂げた。1968年にはドイツ(当時西ドイツ)を抜いて世界2位の経済大国に浮上した。人口1億人に達する大きな内需市場で「規模の経済」に支えられ、自動車と家電を筆頭にした製造業が高成長を牽引する役割を果たした。1973〜1990年の成長率も平均4.3%に達した。

 1952年1月18日、李承晩(イ・スンマン)大統領はいわゆる「平和線」(李承晩ライン:隣接海洋に対する主権に関する宣言)を宣布した。日本漁船の操業規制線の役割を果たしていたマッカーサーラインが廃止されることを受け、独島(トクト)近海の海洋資源を守るためのものだった。1965年に韓日漁業協定が結ばれるまで、平和線を侵犯した日本漁船328隻を拿捕し、漁師3929人を抑留した。その過程で、日本の漁師44人が死亡した。日本は漁労装備の輸出を阻止した。当時の両国関係を象徴する対峙だった。

 1961年5・16軍事クーデターで執権した朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権にとっては経済の再生が急務だった。そのためには、経済開発資金が必要だった。1965年、国交正常化の際、無償3億ドル、有償借款2億ドル、3億ドル以上の商業借款を受けることにした。同年、日本の1人当たりの国内総生産(GDP)は994ドル、韓国は109ドルで、日本が韓国のほぼ10倍だった。

 韓国政府は対日請求権資金を浦項(ポハン)製鉄(現ポスコ)、昭陽江(ソヤンガン)ダムと京釜高速道路の建設に投入した。多くの資本財を輸入した。日本資本にとっては韓国進出を再開する足がかりに、韓国にとっては日本の技術を誘致する契機になった。国際金融機関では韓国の信用度が高くなった。

 浦項製鉄所の設立は象徴性が大きい。鉄鋼業は自動車、造船、機械、建設業などほとんどの産業に基礎素材を供給する基盤産業だ。日本が敗戦直後、すべての資源を鉄鋼と石炭生産に投入したのもそのためだ。浦項製鉄1高炉を設計し、建設を指揮したのは在日韓国人としては初めて東京大学の研究教授になった金鉄佑(キム・チョル)博士だった。新日本製鉄(現日本製鉄)と日本鋼管(現JFEホールディングス)は製鉄所の建設事業を支援した。日本の後を追う方式で鉄鋼生産を拡大した浦項(ポハン)製鉄は1990年代後半、粗鋼生産量で新日本製鉄に追いついた。

 政府主導の経済開発計画の下、資金を企業に集中的に配分し、設備を攻撃的に拡充していった韓国経済は、輸出を増やし、急速に成長した。低賃金が競争力の源だった。1973年1月には「重化学工業化」を宣言し、鉄鋼、造船、機械、化学、非鉄金属、電子など6つの戦略業種の発展を進めた。

 1963〜1979年には韓国の経済成長率が平均10.3%に達した。以後1980〜1997年にも平均8.8%の高い経済成長率を記録した。ベトナム戦争への派兵による特需もあった。1986〜1989年には円高などによる「3低」(低いドルの価値、国際金利、原油価格)も「檀君以来最大の好況」につながった。

 高度成長期の韓日両国間の交易構造を見ると、韓国が一貫して貿易赤字を出している。赤字規模は1969〜1973年に年平均6億ドルだったが、重化学工業化推進期である1974年には倍増した。その後、増加傾向が続き、2010年には361億ドルまで増えた。

 商品別貿易収支を詳細に分析した日本のアジア経済研究所(2011年)は、韓国の輸出企業が戦略的にカラーTV、VTR、半導体、液晶表示装置(LCD)パネルなど日本の主力輸出品の技術を選び、大規模な投資をしてきたため、主な資本財生産財を日本から輸入する戦略を取ったと説明した。短期間で世界市場でシェアを伸ばす方法だった。

 日本経済は米国が円の価値の切り上げを求めた1985年「プラザ合意」以後、ターニングポイントを迎えた。1990年までは好況を謳歌したが、翌年バブルがはじけ、長期低迷に陥った。銀行を不良債権を整理するのに長い時間を費やし、その後は高齢化と人口減少の負担を抱えた。2012年末に発足した第2次安倍晋三内閣は無制限に資金を供給し、円安を誘導した。輸出企業が活気を取り戻し、株価も2021年末、30年前の史上最高値を上回った。だが、円安で物価上昇率が高い中、労働者の実質賃金が下がり続け、内需不振の泥沼からは抜け出せずにいる。

 韓国経済は1997〜1998年に通貨危機に陥ったが、中国製造業の成長にともなう特需を享受し、輸出主導成長をもう少し続けることができた。世界金融危機が勃発する前の2007年までは、年間5%前後の成長を遂げた。しかし、中国が次第に韓国に脅威的なライバルとして浮上し、韓国の製造業も苦戦している。高齢化の負荷が重く圧し掛かり、潜在成長率が急激に下がっている。そのような中でも、1人当たりの国内総生産は2024年に3万6024ドルに達し、ついに日本(3万2476ドル)を追い抜いた。もちろん、経済規模は日本が依然として韓国の2倍を超える。

 2019年7月1日、日本政府は韓国を相手に半導体素材などに対する輸出規制を発表した。 日本企業に強制動員被害者への賠償を命じた最高裁(大法院)判決に対する反発だった。実際の被害はほとんどなかったが、この措置は韓国人に心理的に大きな打撃を与えた。韓国開発研究院が集計する経済不確実性指数が歴代最高値に跳ね上がった。

 韓日間の交易は2008〜2013年にピークに達してから、減少傾向にある。対日貿易赤字も2024年180億ドルで2010年の半分に減っている。先を走る日本と後を追う韓国の「相互依存的貿易関係」もその分弱くなった。

2025/07/16 08:40
https://japan.hani.co.kr/arti/economy/53762.html

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