◆大韓民国「トリガー60」③8・15光復
長くて切実な国民の念願は突然現実になった。そのためか。誰もが街に出て祝うようなことにもかかわらず、証言と記録によると、その日は静かだったという。一部は「解放」と、一部は「独立」と呼んだりする「光復」当日の風景だ。
光復はごく少数を除いて予想できなかった。しかしその前提条件となる日本の敗戦ムードは1945年に入って広がった。日帝が言論を徹底的に統制して「戦争状況が有利に流れている」と報道していたにもかかわらずだ。「東京が米軍の空襲を受けて火の海になった(東京大空襲、45年3月9、10日)」という話が出てきた。また、空襲に備えて国内に防空壕を作り避難訓練までするのは、戦況は決して日本に有利でないとの認識を強く与えた。戦争の相手がほとんど目の前まで迫ってこそ避難訓練が必要であるからだ。しかし実際の認識は「日本が劣勢」という程度であり、すぐに降伏することは想像できなかった。
45年8月14日、ラジオで予告があった。「あす天皇の重大な発表があるのでよく聞くべき」とのことだった。内容は極秘だった。日本もそうだ。不満勢力が反乱を起こして降伏宣言を阻止する可能性があったからだ。
翌日正午にラジオから流れてきたのは天皇の終戦宣言だった。光復はこのように突然訪れた。国民の大半はラジオ放送の内容がどういう意味か理解できなかった。雑音が多く、当時の基準でも古風な文章だったうえ、内容も直接的でなかったからだ。
◆2日後に全国で万歳三唱
天皇の宣言後、京城放送局に勤務していた日本人がまた詔書を読み、続いて朝鮮人放送員イ・ドククンが韓国語で翻訳文を朗読した。その後は解説放送も続いた。その時になってようやく日本の敗戦を認識することになった。それでも光復を考える人は多くなかった。日本が戦争で敗れることと、我々が主権を取り戻すということは異なる話だからだ。日本と我々はひとまとめで敗戦国扱いされるのではないか。そのためか、街は静かだった。
ソウル市民が独立の喜びを抱いて街に出てきたのは翌日の16日だった。前日午後から「日本が負けた」「ソ連軍が入って我々は独立する」という言葉が口伝えで広まった結果だった。16日には西大門(ソデムン)刑務所に収監されていた、いわゆる政治犯およそ2000人が解放され、鍾路(チョンノ)まで行進した。
地方は16日に伝えられ、翌日の17日に太極旗がはためいた。太極旗はほとんどが四隅の四卦がなく赤と青の中央の円だけがあった。家にあった日章旗に急いで青を上から塗って持ち出したのだった。
当時、忠清北道忠州(チュンジュ)に暮らしていた柳宗鎬(ユ・ジョンホ)元大韓民国芸術院会長は著書『私の解放前後』でこのように回顧した。「16日、学校の朝会で校長は『戦争が終わったので防空壕を掘ることはないはず』と述べた。数日前まで日帝の勝利を声高に話していた校長は突然、独立や解放など慣れない言葉を使った。17日になってようやく学生たちは太極旗を持って街に出て万歳を叫んだ。『東海(トンヘ)の水と白頭山(ペクドゥサン)が』で始まる愛国歌も生まれて初めてだった」。8月15日は敗戦宣言の日、16日はソウル解放の日、17日は全国解放の日だった。
ごく少数の人は光復をあらかじめ知っていた。8月6日に広島に、9日に長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦すると、日本は降伏を決めた。これは翌日に朝鮮総督府に伝えられた。総督府側は夢陽・呂運亨(ヨ・ウンヒョン)に会い、治安権を譲り渡すことを議論した。当時、総督府はソ連が韓国まで入って韓半島(朝鮮半島)全体を占領すると予想し、社会主義系列の呂運亨に決めた。ソ連が入った後を考慮した、日本官吏らの「生存案」だった。
ところが状況は変わった。緯度38度を基準に南と北を分けるという決定が8月20日、マニラに派遣されてマッカーサー司令官と会った日本政府代表団に通知された。代表団は22日、朝鮮総督府にこの事実を伝えた。国内では8月24日に毎日新報で、翌日に京城日報で報道された。
呂運亨に会った上月良夫中将は9月1日、沖縄の米第25軍団司令官に「朝鮮の中には平和と秩序を破壊して利益を得ようとする共産主義者が多い」と伝えた。司令官は同日、「日本軍は米軍が責任を引き渡すまでは北緯38度以南の朝鮮の治安を維持する」と答えた。
2025/07/03 13:43
https://japanese.joins.com/JArticle/335822