◇韓日関係は満ち潮と引き潮のように近づいては遠ざかるを繰り返しながら60年という長い歳月を過ごしてきた。その間に現在の関係を形成するのに礎石となった、いまでは忘れられつつある記憶がある。肯定と否定が交差しながらも結局ひとつの指向点を持っている6つの記憶を呼び戻した――。
「屈強な韓国兵士をスルーパスで突破した東ティモール軍フォワードが速攻でゴールほぼ中央にシュート。約10分後に、スタミナ切れした日韓PKF連合軍の隙を突いて、エースの31番がドリブル突破。だめ押しの2点目をあげました」。
韓日ワールドカップ(W杯)決勝戦があった2002年6月30日、両国から5000キロメートル以上離れた新生独立国の東ティモールでも「ミニW杯」が開かれた。インドネシアが支配する西ティモール地域の域外領土であるオエクシの唯一のサッカー競技場が舞台だった。日本の福島秀夫駐東ティモール臨時代理大使(当時)は「競技場に集結した溢れんばかりの市民が最高潮にわき上がります」としながらこのように観戦記録を残した。
この日の試合は有終の美を飾るものだった。W杯期間に合わせて6月の1カ月間に現地住民は男子26チーム、女子14チームの40チームに分かれて試合を行った。そしてこの日、東ティモールの優勝チームが韓国軍と日本の自衛隊の混成チームを相手に親善試合を行った。
「ミニW杯」は韓国と日本が国連平和維持活動(PKO)のために派遣した現地部隊の合同作品だった。当時韓国軍の常緑樹部隊を率いたチェ・ジョンチョル元団長は「韓国であらかじめサッカー用品を準備して行ったし、自衛隊側に共同主催を提案した」と振り返った。その上で「韓国軍単独で大会を開いたとすれば大きな注目を浴びることはできなかったはずだが、実際のW杯のように両国の部隊が一緒になり、各国の派兵軍指揮官だけでなく東ティモール政府閣僚まで参加するほど盛況を成し遂げた」と話した。
◇初めての同じ駐屯地、随時情報共有も
両部隊は同じ国連軍駐屯地にいた。韓日の派兵の歴史で事実上初めての共同駐留と変わらなかった。部隊間の距離は約1.5キロメートル。両国将兵の交流も頻繁だった。日本側の回顧が盛り込まれた著書『防衛外交とは何か』(2022年)によると、「現地に先に到着した韓国軍部隊が自分たちの宿舎に自衛隊の先遣隊を受け入れた」という。
一刻を争う危急状況で日本も恩返しをした。チェ元団長は「副士官のうち1人が心停止となったが、われわれの医務隊には状態を確認できる装備がなかった。ちょうど自衛隊に装備があった。それで応急処置をした後すぐに国連のヘリコプターでオーストラリアのダーウィン基地に搬送して助けることができた」と話した。
韓国軍は外郭の警戒を担う特戦司令部兵力中心の戦闘部隊、自衛隊は再建を支援する工兵部隊だった。それぞれの任務は違ったが、両部隊は情報関係官会議を通じて地域情勢だけでなく脅威勢力に対する情報などをやりとりしたという。韓日軍事情報包括保護協定(GSOMIA、2016年締結)も結んでいなかった時代の話だ。キヤノングローバル戦略研究所の伊藤弘太郎主任研究員は、同年3月に金大中(キム・デジュン)大統領と小泉純一郎首相の首脳会談で共同声明に「成功的なPKO活動に向けた協力」を明記したおかげで両部隊が通訳要員をあらかじめ準備し緊密に情報交換ができたようだと指摘した。
◇クリスマスプレゼントのようだった弾薬支援
東ティモールだけでない。韓日のPKO協力は絶体絶命の危機状況で光を放った。代表的なものが南スーダンでの弾薬支援の事例だ。
2013年のクリスマスを控え南スーダンでは内戦が激化した。韓国軍派兵部隊のハンビッ部隊が駐留するボル地域は政府軍と反政府軍が激しく戦闘を繰り広げていた。こうした状況でハンビッ部隊は基地内に難民1万7000人を保護していた。
問題は弾薬不足だった。当時の部隊指揮官であるコ・ドンジュン元団長は、「国連では非戦闘部隊(工兵部隊)なので撤収しても良いとしたが、難民を置いておいてそのまま出ていくことはできず残留を決めた。実際に交戦に備えようとしても韓国から持ってきた弾薬が部隊員1人当たり140発(対浸透作戦基準)程度だけだった」と緊迫した状況を振り返った。
当初国連に弾薬支援を要請したが、K1短機関銃とK2小銃に使う5.56ミリNATO互換弾を持っているPKFは自衛隊だけだったという。自衛隊部隊は約200キロメートル離れた南スーダンの首都ジュバにいた。幸い自衛隊もやはり道路整備などをする工兵のため普段から部隊訪問などの交流があった。
同年12月21日夜、韓国軍の支援要請を受けた自衛隊の井川賢一部隊長はただちに東京に報告した。安倍政権は熟考の末に閣議で弾薬支援を決めた。反政府軍に完全に孤立する直前まで追い詰められた後、12月23日に最後のヘリコプターで1万発の弾薬がハンビッ部隊に到着した。クリスマスプレゼントと変わらなかった。
コ元団長は「直前まで全員死ぬかもと考えた。実弾が足りず零点規正もできなかったが、弾薬がくるやいなや戦闘準備に入った」と明らかにした。
実際に翌日午後5時にハンビッ部隊が駐留する国連軍基地内に120ミリ迫撃砲弾2発が落ちた。部隊からわずか300メートル離れた場所だった。この攻撃でネパール兵数人が負傷するなど人命被害まで出た。
2025/07/27 12:28
https://japanese.joins.com/JArticle/336773