50年前の「ポニー神話」…「死のうが生きようが独自モデル開発」切迫さがあった

投稿者: | 2025年8月6日

2023年5月、現代(ヒョンデ)自動車グループは約50年を遡る時間旅行をした。1974年にイタリアのトリノ・モーターショーに展示した過去の「ポニー・クーペ」のコンセプトモデルを復元した。その上で現代自動車の鄭義宣(チョン・ウィソン)会長はこのように話した。「昔苦労しながらともに努力した点、そうした全てのことを再び生き返らせようという趣旨だ」。当時どんなことがあって鄭会長が50年前を生き返らせようとしたのだろうか。

50年前の環境は現代自動車にはどん詰まりと変わらなかった。71年から2年近く続けてきた米フォード自動車とのエンジン生産合弁交渉が決裂した。当時韓国には新進(シンジン)、起亜(キア)、現代の3つの自動車メーカーがあった。海外から自動車部品を輸入し自動車を組み立てて国内で売っただけで、輸出は夢見ることもできなかった時代だった。

 エンジン国産化を推進した韓国政府は過剰競争を防ごうと「1社だけエンジンを作るようにする」とした。エンジン生産を引き受ける企業が主導権を握ることは火を見るより明らかだった。そこで現代自動車は71年からフォードと合弁交渉をした。しかし出資比率などで溝を狭めることができず交渉は決裂した。72年末のことだった。これに対し競合会社の新進自動車は6カ月前に米ゼネラルモーターズ(GM)と合弁でGMコリアを設立した。

場合によっては韓国市場をGMコリアに明け渡すことにもなりかねない危機だった。現代自動車は正面突破を選んだ。当時の鄭世永(チョン・セヨン)現代自動車会長は『ポニー鄭 私の人生、私の夢』で当時をこう振り返った。

「死のうが生きようが固有モデルを作らなければならない。現代自動車が生き残るための背水の陣という切迫した思いだった。長兄(鄭周永創業会長)は大賛成だった」。

最初の固有モデルの乗用車「ポニー」を宿した瞬間だった。固有モデル開発は輸出まで念頭に置いた決定だった。鄭周永(チョン・ジュヨン)会長が商工部の金在官(キム・ジェグァン)次官と直接会って「積極的に支援する」という回答を引き出した。だが進む道は遠かった。何より技術は部品を組み立てることがすべてだった。核心部品を作る技術は最初からなかった。

◇「大きい船も作ったが自動車は作れないか」

車体はイタリアのイタルデザインに任せ、エンジンと変速機は日本の三菱から、他の部品は別の会社から技術を持ってきて組み合わせることにした。何年か前に現代重工業が輸出用大型船舶を作る時に使った方法だった。「このようにして大きな船も作ったが自動車も作れないか」と現代自動車の社員を説得した。

だが内部でも成功には懐疑的な見方が存在した。当時のチョン・ジュファ次長(後に現代自動車技術開発専務)の表現によると、「(鄭世永)社長とやり合った」。

「これはできないと社長に話した。『競争するのはGMコリアではないですか。それを相手にしてできると思いますか。下手をすれば会社が潰れます』。すると社長が『君の言葉通りにわれわれが工場を作って新しいモデルを作って潰れるとしよう。それなら鄭氏が滅びるのだ。しかし君たちの働く場所は韓国に残っているだろう。しかし馬鹿みたいにやりもせずに何をできないと言うのか。無駄口を叩かずにさっさとやれ』。その言葉を聞いて感動しました」。チョン次長をはじめとして心を動かされた社員は無駄口を言うことなく開発に没頭した。

おりしも韓国政府の自動車産業育成方針が固有モデルを選んだ現代自動車に有利に変わる。エンジン生産一元化はなかったことになった。代わりに73年7月に「韓国型乗用車生産事業計画書」を出せとの指示が下った。「外国で生産・市販されたことのない新設計のモデル」でなければならなかった。自動車を内需ではなく輸出産業として育てようという目的だった。現代自動車がすでに着々と進めていた計画だった。

76年2月に「ポニー」が正式に発売された。当時の基準で大ヒットとなった。78年に約5万台、79年に6万5000台を生産した。人気モデルでも年間1万台も作らなかった時期に成し遂げた成果だった。78年には約1万8300台を40カ国に輸出した。

車体設計とエンジン、変速機などの主要技術をすべて導入に依存したが、これを結合して新しいモデルとして作り出すすべての過程は独自の技術努力で解決した。性能が確認された自動車の部品を導入して組み立てた過去とは異なる過程だった。

自信を得た現代自動車は「Xカープロジェクト」を推進した。85年から年間30万台以上を作るという大量生産プロジェクトだった。これを通じて誕生したのが「エクセル」だ。エクセルは米国進出初年度の86年に現地で20万3000台を販売する記録を立てた。

エクセルの成功は絶妙な好循環を呼んだ。現代自動車はその当時、独自開発のエンジンがなかった。三菱に毎回技術料を払わなくてはならなかった。販売台数が多いため三菱に払う技術料が年間454億ウォンに達した。現代自動車が独自に推定したエンジン開発費用は200億~250億ウォンだった(現代自動車、88年「長期商品会議」)。半年分の技術料があればエンジンを開発できるという話だった。費用が予想を大きく上回るとしても1年分の技術料ならば十分だった。開発に着手しない理由はなかった。

91年初めに「αエンジン」と「αトランスミッション」を出した。現代自動車はこうして独自の技術を着々と備えていった。だがいまの座に上がるまでには変曲点(トリガー)がもっと必要だった。エクセルなどの輸出がうまくいったとはいうが、現代自動車はただ「値段が安い車」だった。品質はさらに嘲弄まで受けた。米国のテレビのトークショー番組では自国政府の誤った政策決定を「現代自動車を買うと決めること」と例えた。

◇鄭夢九会長「品質経営」、トヨタ抜く

99年に会長に就任した鄭夢九(チョン・モング)現代自動車グループ名誉会長はこれを変えようと腕まくりした。過去に販売と整備を担当した現代自動車サービスを率いて消費者の品質評価を肌で感じてきた鄭名誉会長だ。就任初期に品質コンサルティングを受けるようにすると、5年後の2004年には米市場調査会社JDパワーが実施する新車品質調査で日本のトヨタを抜いた。米国の自動車専門誌はこれに対して「人が犬にかみついた(想像できないことが起きたという意味)」と報道した。

ポニーは韓国の自動車産業も部品組み立てから抜け出し独自のモデルを作って輸出できることを見せた。そこでできた自信は大量生産と技術自立につながり、品質が加わり韓国は世界5位の自動車生産国、現代自動車グループは世界3位の自動車メーカーになった。

いまや自動車は「国を養う産業」とまで言われている。単に輸出の柱で付加価値が大きいという意味ではない。自動車産業が雇用の宝箱だからだ。製造業の中で自動車産業が占める雇用の割合は12%に近い。タイヤや車体を作る鉄鋼に自動車用電子部品のような関連産業まで合わせれば雇用の割合は製造業全体の4分の1を占める。これを作った決定的契機(トリガー)がポニーだった。

現代自動車はフォードとの交渉でこうした教訓を得たという。「われわれの道はわれわれが開拓しなければならない」。そして教訓を実践した。「固有モデル開発」という、韓国でだれも進まなかった道を選んだ。時には反対する構成員を説得し励まし引っ張っていった。心を動かされたエンジニアは開発に全力を注いだ。このようにして韓国自動車産業のトリガーであるポニーが世に出た。現代自動車は当時の韓国企業で最も積極的戦略を選んだおかげで自動車産業でトップに躍り出ることができた。

「革新的企業家の挑戦するリーダーシップと専門家の技術努力の結合」――。鄭義宣会長がポニー・クーペを復元し生き返らせようとしたのはまさにこの部分ではないだろうか。実際に鄭義宣会長も鄭周永会長から受け継いできた挑戦と革新のリーダーシップを常に強調しているようだ。「おい、やってはみたのか」という鄭周永会長とやや違いながらも同じように鄭義宣会長は「やってみましょう」という言葉で挑戦意識に火を付けるという。

いま韓国の自動車産業は新たな挑戦に直面した。これまでは価格競争力を基に先進企業を追撃したが、いまは自動運転車や電気自動車技術に価格競争力まで備えた中国を相手にしなければならない。「挑戦と革新のDNA」を基に、韓国の自動車産業がこれからもずっと「国を食べさせる」産業になることを期待してみる。

イ・サンチョル/聖公会大学教授

2025/08/06 11:32
https://japanese.joins.com/JArticle/337245

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