アメリカとイスラエルによるイラン攻撃が始まり、イランでは子どもを含む民間人の犠牲者が多数いることが報道されている。テレビ、新聞のニュースを見ることがつらい毎日である。この攻撃は、国際法を無視した不当な暴力行使である。日本の首相は、自由、民主主義、法の支配という基本的価値を擁護することを国際社会に向かってくりかえし叫んできた。この価値観を実践するならば、高市早苗首相はアメリカの行為を非難しなければならないはずである。しかし、3月6日のカナダ首相との会談の際に、湾岸諸国を攻撃したイランの行為を非難しただけである。高市首相の発想において、法の支配という言葉は強国には適用されず、弱い側の軍事力行使に適用されるようである。強者にへつらい、弱者を見下す臆病者は、法の支配などという高尚な言葉を、以後使うべきではない。
アメリカもイスラエルも、一応民主主義国家に分類されている。非人道的な戦争を指揮している指導者は、選挙によって選ばれた。民主主義の国の指導者は、基本的人権を尊重し、憲法や法で決められた手続きを守るという常識は、過去のものになった。ロシアの独裁者、プーチン大統領とアメリカやイスラエルの指導者が同じような暴政を進めるのを見ていると、民主主義が人々の自由や生存を守るために優れた仕組みだという政治学の基本的公理を修正しなければならなくなる。
2016年にトランプがアメリカ大統領選挙で勝利した後、政治学者たちは民主主義の変調について議論し、危機を分析する本を書いてきた。それらの見解をまとめれば、2010年代後半以後、民主主義は国王を決めるための手続きになったということである。権力者になりたい人が、選挙の時には国民に対して下手に出て、支持を懇願する。しかし、一旦選ばれて権力をもつと、自分は民意を体現した存在なので、面倒な手続き、法の制約、まして実効性のない国際法など無視して、自分のやりたいことをするようになる。
議会が権力者と同じ党派によって支配されていれば、議会は権力者の翼賛機関になる。裁判によるチェックは制度として存在するが、裁判には時間がかかるし、そもそも権力者に近い人物が裁判所を構成していれば、司法審査にも期待はできない。報道の自由という憲法原理は一応存在するが、新聞、テレビに対して陰に陽に圧力をかけ、権力批判を躊躇するように仕向けることは、アメリカでも日本でも行われている。
こうした変化は、先進国のなかでは、日本で最も早くあらわれた。2012年に就任した安倍晋三首相は、内閣の決定によって憲法解釈を変え、集団的自衛権行使を正当化することから始めて、メディアに圧力をかける、公文書の隠蔽や改ざんで権力による犯罪をもみ消すなど、腐敗した専制君主のようなことを繰り返した。
高市首相は、日本初の女性首相として、高い人気を誇っているが、実際の行動は専制の方向に進んでいる。2月の衆議院選挙で、衆院の3分の2を超える議席を得た高市政権は、現在来年度予算の審議を進めている。従来、予算委員会においては、時間をかけて、重要な政策のみならず、首相の基本的な政治理念、さらに権力にまつわる腐敗など多くのことが議題となり、首相は野党の質問に対して答えることがしきたりであった。しかし、自民党は圧倒的多数を背景に、首相が質問される場面をごくわずかにとどめて、早期の予算成立を図っている。これは、予算の使い道を詮議するという議会の最も本来的な機能を否定する暴挙である。また、3月に高市首相がアメリカを訪問し、トランプ大統領と会談する際、トランプの要求に応じて自衛隊を中東に派遣することを約束することも危惧されている。
権力の暴走を心配すればきりがないが、選挙で選ばれた国王と、世襲の国王の違いは、任期の有無である。王様のようにふるまう権力者といえでも、任期が来れば、改めて国民の判断を仰がなければならない。ただし、日本では衆議院選挙があったばかりなので、当分、民意を示す機会はない。権力者が何をしたか、記憶し、次の選挙の機会にその責任を問うという作業に国民が取り組まない限り、民主主義の空洞化は進む。
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